Columnコラム

本の紹介2022.07.03

本の紹介

 先日、私が車通りの少ない道路で信号待ちをしていたところ、横にいた若い男性が赤信号を無視して道路を渡った。その姿を見た向かいの道路に立っていた若い女性も突如赤信号を無視して道路を渡った。私は日本で生まれ育ったからか、このような景色は馴染みのものであり、違和感を持つことはない。周囲の人の行動を見て自分の行動を決定することは、日本人にとって馴染みの行動パターンであり、日本社会は良くも悪くも同調圧力や社会的慣習によって支配されているとも言われている。

 「しなやかで強い組織のつくりかた ―21世紀のマネジメント・イノベーション」(ピーター・D・ピーダーセン著 生産性出版 2022/6/30)を読んだ。この本では、しなやかで強い組織体質を実現するために、Anchoring(アンカリング:主に信頼関係の形成や目標の共有化)、Adaptiveness(自己変革力:主に組織的学習の進化・高度化)、Alignment(社会性:主に会社と社会とのベクトル合わせ)のトリプルAが重要であると説かれている。私の解釈では、本書でいう「しなやかな組織」というのは、ストレス耐性が高い組織という意味ではなく、個人と組織、会社と社会、利益と理念などのバランスが高度にとられた組織のことである。同時に、本書では日本社会の同調圧力や日本企業の不合理な慣習が、日本企業の成長や社員の幸福度を低下させているとも指摘されている。デンマーク出身で親日家でもある著者のピーターは、そのことを端的に「もったいない。」と表現している。私も、著者と同様にもったいないことと感じているし、青信号を渡らないことは時間の無駄でもあると思う。

 本書で示された日本企業の持続可能な明るい未来像とアクションプランは、日本企業にとってはまさに「青信号」であると私は信じているが、本音では賛成でも建前としてそれを表現しづらい日本社会において、その普及へのハードルは高いと思われる。日本社会には青信号なのに気軽に渡ることを簡単に許さない同調圧力や不合理な社会的慣習があるとしたら、それを変えるにはどうすれば良いのだろうか。私なりに産業医としての立場で考えると、企業内での社員同士の会話の量を増やし、社員の本音が十分に共有されることが大事ではないかと考えている。本書を片手に全社員が本音で話し合い、そこから合意形成ができれば、新たな適応的な慣習と生産的な同調圧力が形成されうると期待している。

 本書は、著者が社外取締役を務める丸井グループをはじめ、日本を代表する大企業での取り組みが具体的に多数紹介されており、文章も端的であるため、非常に読みやすい。産業・組織心理学の発展の歴史も一部紹介されており、外国人から見た日本企業の分析も興味深く、個人的には今年一番の良書であった。また、巻末には「トリプルA調査設問(簡易版)」が掲載されており、企業において自己診断ツールとして利用できる点でも実践的で有益だ。産業医として担当している企業様にも紹介したいと思う。

本の紹介2022.06.28

恩師との出版について

 

世間では全く知られていないが、精神科医の業界では、お互いを褒め合うことが常識である。筆者はそれを「褒めトーク」と私的に表現している。褒めトークとは、相手への敬意と受容を常とし、かつ、相互を言語的に肯定しつつ接し合う日常会話である。私が研修医の頃の高名な主任教授も、精神科臨床について何も知らない私を言葉で褒めつつ、深い意味を込めて様々な示唆を与えて下さった。精神科医局では、伝統的にどこでも同じようなコミュニケーションであろう。おおらかさと話しやすさを尊ぶカルチャーは、多くの精神科医にとって誇りであり、精神科医療への愛着と実質的に同義とも言える。しかし、池田先生と私の関係性は一味違っていた。

池田先生と私は、私が開業する前に私が勤務していた精神科病院で、当時私は常勤医として、池田先生は非常勤医として、偶然出会った。池田先生は私の話をうわべだけで傾聴したふりをせず、あたかも話を聞いていない風でありながら、言いたいことは言いっぱなしであった。たまに私のことを褒めてくださるが、それが普通の精神科医と違って、さりげないのである。素っ気ないという言葉がぴったりだ。池田先生は私が開業のために病院を退職してからも現在に至るまで、度々長文のメールを頂いている。私は、多忙もあって、ろくに返信できていないが、池田先生は私の横着に対して否定的な姿勢は一切取らない。池田先生と私のやりとりは多岐に渡るが、私より一回り以上年上である池田先生の語りは常に早口で、そして、どんなに会話が砕けたとしても主語述語が破綻することはなかった。そんな精神科医は私にとって初めてであった。

 

ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan)を始め、精神医学は構造主義を背景にフロイト(Sigmund Freud)の古典的な精神分析理論から大きな飛躍を遂げた。私は研修医の頃に構造主義に魅了され、にわか勉強で知ったクロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)やソシュール(Ferdinand de Saussure)のことを治療技法と絡めて池田先生に話すと、池田先生はそれに全く関心を示さない。しかし、その内容について私より遥かに詳しい。池田先生と私との見解の最大の違いは、統合失調症についてである。私はフーコー(Michel Foucault)の理論が大好きで、権威的な圧力と統合失調症との関係を強調するのだが、池田先生は構造主義の相対的・相互的な世界に興味を示さない。池田先生にとっては、統合失調症も発達障害も同列で、全て対象は「目の前に実在する人」なのである。そして、良心的、全人的に接することが重要であると常に説く。

 

池田先生は、精神科医でありながらペンクラブの会員でもあり、一般向けの講演、大学での講義、執筆活動等に注力されている。病院での勤務中にも、いつも忙しそうに資料作りのためにパソコンと向き合っていたが、私が相談を持ちかけると時間を気にせず私と本気で向き合ってくださった。非常勤の池田先生の病院勤務は週1日であったが、私は池田先生が勤務される日を密かに心待ちにしていた。私と池田先生は、難治性・薬剤抵抗性とされる患者様の治療について何度もディスカッションさせていただき、時に私は実際の患者様の診察をお願いしたこともあった。今振り返っても、診察後のレビューはとても貴重な学びの場であったと思う。医学部の中で卒業後に精神科を専攻する者は変わり者とされるが、その中にわずかであるが、天才的な先生がいらっしゃる。私はこれまでの精神科病院での勤務歴の中で才能豊かな先生方とたくさん出会うことができたが、その中でも池田先生は特別な先生である。池田先生から学んだことは尽きないが、何より一番感謝しているのは「本で勉強するな、臨床の現場から学べ。文章表現で勝負する精神科医を疑え。」との言葉である。

 

およそ2年前に、そのような臨床重視の池田先生が中心となって本が出版されることになった。「標準公認心理師養成テキスト(文光堂)」である。私は池田先生から執筆依頼をいただき、私は共著者の一人として従事した。先日無事に出版となってホッとしているところである。本書は公認心理師を目指す方にとっては、全ての必要事項が簡潔に網羅されており、これ一冊と過去問集で公認心理師試験に合格することができる。また、現代の心理学でトピックになっていることが全て網羅されているため、心理学の基礎を効率よく一望したい方にも是非おすすめしたい。

 

標準公認心理師養成テキスト
文光堂
大石 幸二 (編集), 池田 健 (編集), 太田 研 (編集), & 1 その他