コラム)二つの時間
先日、新幹線に揺られながら時間というものについてぼんやり考えていました。東京から新大阪まで、速さだけでいえば、こだまよりひかり、ひかりよりのぞみが早く着きます。距離も所要時間も時刻表に決められていて、誰が乗ろうと変わりません。これが時計が刻む物理的で客観的な時間です。
けれど、それとはまるで異なる主観的な時間が私たちのなかには流れています。たとえば、受験生の頃を思い返すと、試験は明日、勉強はまるで足りていない。車内で参考書をひらいては閉じ、問題集を解き、同じところを何度も見直しているうちに、気づけば新大阪のアナウンスが流れている。それでも間に合う気はしないのだから焦ります。二時間半が、まばたきほどにしか感じられないのです。そこまで追い詰められていなくても、似た体験は誰にでもあるでしょう。好きな作家の小説を持ち込んで、つい読みふけっているうちに、もう着いてしまう。あれ?と顔を上げる、あの少し名残惜しい感じです。
一方、主観的な時間が遅く感じられるときもあります。予定した新幹線に乗り遅れて約束に間に合いそうにないと、私はのぞみのシートでそわそわしっぱなしになります。「遅れます、すみません」とメールし、そのあとの予定をどう繰り合わせるか考え、それでも時間が足りず、イライラして何度も時計を見る。早く着きたいと気ばかり急いているのに、時間はねっとりと重く、なかなか進んでくれません。同じのぞみのはずなのに、車窓の景色まで違って見える気がするから不思議なものです。
心理学でも、この感覚のからくりはかなり分かってきています。何かに没頭しているとき、いわゆるフロー状態にあるとき、人は時間の経過そのものに注意を向けなくなり、あとから振り返って「あっという間だった」と感じます。この、時間を数えるのをやめる働きが、あの文庫本のなかでも起きているのです。
だとすると、少しおかしな話ですが、東京から大阪に早く着く方法は二通りあることになります。ひとつは素直にのぞみに乗る。もうひとつはのぞみでなくてもいいから、鞄に文庫本を一冊しのばせておく。片方は物理的な時間を早くし、もう片方は自分の主観的な時間を早くする。同じのぞみに乗ったとしても、旅の長さはずいぶん違ってしまうのです。
近ごろは「タイパ」という言葉をよく聞きます。動画は倍速、要点だけを手際よく。一秒も無駄にするまいというその構えは、人生をまるごとのぞみで駆け抜けようとしているようにも見えます。ただ、後になって「あの時間はよかったな」と思い返すのは、たいてい効率よく過ごした時間ではなく、我を忘れて浸っていた、あの文庫本のような時間のほうなのではないでしょうか。
