コラム : 安全配慮義務について
最近、旧知の弁護士とのやりとりで、「群れ」と「安全配慮義務」について考える機会がありました。
人間は社会的な動物です。会社もまた一つの群れと言えるかもしれません。
ただ、ここで「群れ」の定義を少し丁寧に確認しておく必要があります。群れとは単なる人の集まりではありません。健康・経済・文化を共有し、ともに生存を図るための集団です。成員の生活基盤そのものを包み込む、広く深い共同体です。自然界を見れば、群れの存続のために個体が危険を引き受けることは珍しくありません。群れ全体の利益が、個の犠牲よりも優先される世界です。
一方、現代の企業に課せられた安全配慮義務は、カバーする範囲がはっきりと限定されています。それは雇用者が従業員の「生命・身体の安全および健康」を守る責任、その範囲に絞られた法的義務です(労働契約法第5条)。経済的な保障でも文化的な連帯でもなく、あくまで身体的な安全と精神的な健康への配慮が求められています。
ここで、一つの矛盾が浮かび上がります。
群れの論理は、健康・経済・文化という広い領域を一体として捉え、「群れ全体が存続するためなら、一定の個の負担もやむを得ない」と動きます。しかし安全配慮義務は、生命・身体の安全と健康という領域に絞ったうえで、「組織の都合を理由に個人の安全と健康を後回しにしてはならない」と釘を刺します。
つまり、群れの維持を優先しようとする本能と、個人の安全・健康保護を優先しようとする義務が、正面からぶつかる場面が生じうるのです。
私はこの問題を、二つの立場から眺めています。
精神科医として患者と向き合うとき、安全配慮義務は心強い味方です。「会社に迷惑をかけてはいけない」「自分さえ我慢すれば」と追い詰められた患者に対して、「あなたの安全と健康を守ることは、会社の法的な義務でもあるのです」と伝えられる。その一言が、罪悪感の重荷を少し降ろす助けになることがあります。安全配慮義務は、群れの圧力に押しつぶされそうな個人を、法律という形で支えてくれる存在です。
しかし産業医として企業と向き合うとき、話はそう単純ではありません。会社という群れは、意識するとしないとにかかわらず、「群れの存続」を最優先に動こうとします。業績の悪化、人手不足、納期のプレッシャー——そうした文脈の中で、個人の安全と健康への配慮を正面から訴えることは、しばしば「群れの論理」との静かな綱引きになります。個を守ろうとする義務と、群れを守ろうとする本能。その間に立つ産業医の立場は、言葉にしにくい息苦しさを伴うことがあります。
業績が厳しいとき、納期が迫っているとき、会社という群れを守ろうとする力が強く働きます。しかしそのとき、安全配慮義務は「それでも個人の安全と健康だけは譲れない」と要求します。
群れとしての企業はどう考えればよいのか。組織の存続と個人の安全・健康保護が矛盾したとき、私たちはどこに答えを求めればよいのか。
安全配慮義務とは法律論であると同時に、企業という群れの本質そのものへの、まだ答えの出ていない問いなのかもしれません。
