産業医とポルシェ
スポーツカーの代名詞であるポルシェのブレーキ性能は、ユーザーから高い評価を得ている。ポルシェのエンジン開発の基本コンセプトとして、エンジン出力の4倍に相当するブレーキ制動力が担保されているといわれ、300馬力のエンジンなら1200馬力のパワーがブレーキに与えられていることになる。特にポルシェのラインナップの中の911GT3という上位モデルは、時速100キロから急ブレーキを踏むと、そこから30.7mでクルマは静止するという。車に速さを求めるユーザーが、ブレーキ性能に絶対の信頼を求めることは自然な発想だろう。
先日、友人の産業医と打ち合わせを兼ねて散歩していたところ、彼は筆者にこう言った。
「最高の産業医ってどんな先生だろうね。やっぱり、休職が必要な、どの社員に対しても、ためらいなく要休職と決断し、それを社員に、即、納得させられる産業医かな。」
その言葉の真意を尋ねると、
「誰でも産業医の経験をある程度積めば、だいたいどのような状態で社員を休職にすべきかって、相場で判断できるようになるよね。でも、判断できるだけじゃダメで、即座に実行できて本物。世の中には、成長志向の前向きな会社や、優秀で意欲が極めて高い社員は想像以上にたくさんいて、そんな会社や社員はギリギリまで無理してでも成果を出したいわけ。だから、彼らは成果が出てさえいればストレス状態は全然OKで、その程度の疲労状態で産業医から強制的に仕事を止められるなんてナンセンスだと思っているの。彼らは、本当に病気になりそうな時に限定して会社を休みたいし、そんな彼らのニーズに応えるには、疲労がたまっても病気になるギリギリのタイミングまで何もせず、一瞬でも病気になりかかったら、即、確実に、休職にしてほしいわけ。」との回答であった。世間の評価は分かれるかもしれないが、友人産業医の言葉には、なるほど、と思わせる鋭いものがある。
実際の労働現場で奮闘している社員が、ある日突然、産業医面談で産業医から休職が必要ですと言われた場合、休職に納得することは簡単なことだろうか。社員に「健康が第一であるという良識」「産業医の専門性への絶大な信頼」「休んでも、会社から再度活躍の場が与えられるだろうとの期待」などがないと、簡単に休職は実現しないであろう。特に、産業医の社員に対する説明能力は休職を即実現させる上で重要であり、産業医から社員に対して、なぜ今休職が必要なのか、を誰もがわかるような明解な言語をもって伝えられなければならない。それができる優秀な産業医は稀であるが、彼らは、いつでもどの社員にも休職が必要であることを納得させられる自信があるから、軽度な疲労レベルでは敢えて社員に注意喚起をせず、経過観察のための面談を継続的に設定しつつ、むしろ軽く励ますことが彼らのお作法であると筆者はしばしば耳にする。
話は最初に戻るが、ポルシェのプレーキ性能は過剰なものではなく、加速性能とのバランスにおいて合理的である。急成長を求める企業の経営者は、優秀な産業医を選任し、健康経営を地道に進め、社員のセルフケアへの意識を高め、そのような営みを通して普段から会社のブレーキ性能を向上させるよう努めるべきである。そうすることで、企業や社員は、いくらでも強くアクセルを踏むことができるようになる。また、会社全体のブレーキシステムの根幹に、これまで以上に、医学の専門家である産業医が深く関わるべきであると筆者は考えている。