「職場でのカウンセリング」の著者に聞く(その2) : 冲永昌悟
第4章 産業医の役割と心理職との連携 冲永昌悟
1.産業医業務の基礎知識
2.心理職と産業医との連携
コラム① 私が産業医になった理由(冲永昌悟)
1.どのような思いで執筆を引き受けたのでしょうか?
僕は、普通の医師とはちょっと異なる経路で医師となりました。まずは、文系の法学部の大学に進学し、その後、銀行員となり、医師となりました。その辺のことを少しお話ししたいと思います。
僕は、1997年に日本興業銀行に入行し、新人社員として、東京支店という支店の営業部の最前線に配属され、社会人の1歩を踏み出しました。その頃は、バブル崩壊後、金融危機と呼ぶに相応しい年で、証券会社や、銀行など大手金融機関が次々と、経営困難に追い込まれた時期でもありました。
そんな中、営業の最前線にいた僕は、早朝から深夜まで、ほぼ毎日恒常的に残業業務が続いていました。経験したことない金融危機に法律や制度が追いついておらず、海外からの法整備の注文が殺到し、政府や金融当局の指示が二転三転し、業務量が増大し、金融業界全体がパニックに陥っていました。
組織全体に多大なストレスがかかり、心や体を害する従業員が増え、僕自身も出口の見えない状態に、疲労と倦怠感がつのり、ただただおびえた毎日を過ごしていました。
この頃に、漠然とではありますが、働く職場と、健康というものを意識し始めました。社員や、組織全体の健康が阻害されると、生産性も低下することを目の当たりにしたからです。産業医という存在を知ったのもこの頃でした。その後、医学部へと進路を変更し、産業医として働くことを念頭に、いろいろな分野の診察ができるオールランドな医師を目指しました。
研修医の時なども、確かに業務はつらく、個人的に当直など肉体的な負荷はかかっていました。しかし、1997年の銀行員のときのように、組織全体が制度疲弊をおこし、ストレスが慢性的に継続している状態とは異なるものでした。
そして、2020年になると、コロナウイルスによるパンデミックがおこり、急激な社会情勢の変化がおこりました。その中で、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の産業医の業務を行うことになりました。感染症対策は勿論ですが、この時も、開催年を1年遅らすべきか?スタジアムは無観客にするべきか?など国の方針が二転三転し、急激に業務が増え、従業員に多大なストレスがかかりました。産業医としてもギリギリの選択を何度もしたことを覚えています。
今後も、各企業においてメンタルヘルスの重要性は言うまでもありません。個人的にケアをするのは勿論大事ですが、企業が組織的に行うことはもっと大事なことだと思います。大切なのは、組織として適切なメンタルヘルス対策を行うことだと思います。
この本では、産業医の立ち位置から、組織としてのメンタルヘルス対策のコツや流れみたいなものを中心に書かせて頂きました。いままでの自分の体験を踏まえ、この本が少しでも企業内で役立つことになれば望外の喜びです。
2.本が出版されて、今どのようなお気持ちでしょうか?
素直に嬉しいです。今後日本において、産業医を中心とした健康経営的な文化はますます広がっていくと思われます。その中でも、メンタルヘルスの組織作りは健康経営の中でも本丸に位置します。また健康経営という概念は、トップダウンで独断専行に行うのではなく、「みんなで」ボトムアップ式で行っていく方がよく、日本の置かれている環境や風習とも一致します。これからも、少しでも、より良い企業の文化作りに貢献できれば嬉しく思います。
3.読者へのメッセージをお願い致します。
結構専門的で、内容の理解が難しい専門的な本だという印象があるかと思います。しかし、ここには普段、思っている産業医などの本音が述べられております。産業医業務の中では、白か黒か、簡単に割り切れない事象が多発します。そのグレーな部分をいかに解釈して、会社内を良い方向に持っていくのかということが、産業医や心理職、人事部などの役目だと思います。簡単に割り切ることは子供でもできますが、答えがない事象について、新しい問いを立て、答えを導き出す作業は、ある意味大人の仕事とも言えます。健康経営を行っていく上では、企業が成熟し、ある意味大人の対応が求められます。そのような困難な問題を解決できる企業を目指される方々に役立つ本となれば、著者として大変嬉しく思います。