Columnコラム

カウンセリング2023.02.19

心とは

 

大先輩の精神科医から、心とは何か、についてメールをいただいた。心は存在するのか、しないのか、その実態は何か。正直、どう返信したら良いか迷っている。私が専門科を選ぶ際に精神科医を志したのは、このような問題を考え抜くことに興味があったからであり、今でも常日頃から考えているテーマである。しかし、この先輩からのメールには、簡単には応え難い何かズシッとした重みがあった。

 

従来、人間の営みや成長のプロセスは心、身体、頭脳の3要素に分割されて論じられてきた。例えば、「文武両道」という言葉は、身体と頭脳を鍛えることで心も成長するだろうとの期待を包摂している。3要素の協働によって、健全な成長が図られるということであろう。それは、常識的にも社会的にもすんなり受け入れられる話だ。心理の世界では、3要素がうまく噛み合っていなかった例としてゆとり教育がしばしば議論の対象になる。ゆとり教育と言いつつ、生徒の課題量が軽減されたのみで、子供達の心のゆとりそのものが十分に捉えられていなかったのではないかという反省をしばしば耳にする。産業保健の世界でも同様である。社員の心の問題が常に話題になるが、過重労働対策(身体的負担への対策)やパワハラへの啓蒙活動 (心の問題への知的理論武装?)など、身体や頭脳での対策に終始し、社員の方が心から笑顔になるような対策は現状でも少ない。情報が溢れ、様々な価値観が許容されている現代においても、心そのものを直接的に捉え、有効に対応することは非常に難しいことなのであろう。

 

心そのものについての学術的な研究はたくさんある。EQ(Emotional Quotient)理論では情動の意味を認識し、それを活かしながら問題解決する能力が問われている。情動は自律神経を介して身体に影響するものであり、体調の変化を覚知する感性が大切なのかもしれない。心の理論(Theory of Mind)では他者の気持ちを推測する能力が問われているが、その際、言語や状況を俯瞰して理解する知能が必要であろう。二つの研究から、心とは、身体への感性と状況判断に関する知性の二面性があると言える。それで事足りると言えばそれだけのことであるが、そのような社会的とも言えるほど常識的な視点は心そのものから遠ざかっているような気がしてならない。

 

人は他者の心を心単体として認識することは可能なのだろうか。私は、詳細な解説は割愛するが、言語を介して共感的に感じられるエンパシー(Empathy)は言語能力を要するために、心そのものとは若干距離があるように思う。むしろ、言語を介さず感覚的に生起されるシンパシー(Sympathy)の方が心の本質に近いように思う。例えば、痛みを訴える患者様に、情緒を込めて「どうされたのですか?」と伝える際に、心のふれあいを感じる。その際、身体への感性や状況判断はあまり関与しないようにも思う。シンパシーは労力を要さない。心とは、実態があるようでなく、意外にも気楽に扱われるべきものなのかもしれない。

 

かつて精神科を選ぶ医師にとって必読書とされていた神田橋條治著「精神科診断面接のコツ」(岩崎学術出版社,1990年)には、多くの精神科医を圧倒的に魅了する「雰囲気」としか表現できない「何か」があったように私は思う。それは、精神科臨床の要諦だけでなく、心そのものをおおらかに捉える楽観的な感覚が込められていたからではないだろうか。それを22年ぶりに読み返してから、先輩への返信をゆっくり考えたいと思う。

心理学2022.03.30

知能テスト結果の見方

知能テストは、知能のプロフィールを客観的にデータ化できるため、知能テストを受けることで被検者は自分自身の適応についての理解を深めることが可能です。
知能テストではIQ(全検査IQ)が算出されますが、知能テストの結果の解釈において最も重要なことは、I Q(全検査IQ)の点数ではなく、知能テストによって数値化される以下の4つの指標の得点間の差異(ばらつき)であると言われています。
1. 言語理解
2. 知覚推理
3. ワーキングメモリー
4. 処理速度

知能テストの結果の解釈の方法は多岐にわたりますが、例えば、言語理解が高く、知覚推理が低い場合については、臨床現場において以下のように解釈されます

このような被験者は、一般に、物事を言語的に理解・処理することが得意なのですが、言語能力と比較して、物事を視覚的に判断・推測する能力が相対的に低いため、人の表情や状況よりも人の言葉そのものから人の本音を推測しようとする傾向があります。
物事を言語的に理解・処理すること自体は、社会適応上、決して間違ったアプローチではありませんが、言語的な情報が乏しい場合においては、言葉の通りに理解したことによって当事者に事実誤認やストレスをもたらす場合があります。
このようなタイプの人が、物事の重要なポイントを言葉ではっきり言わない人と接する際には、視点を変えて物事を見直したり、自分の理解が相手の意図したものと合致しているかを相手に都度確認したり、相手に対して意識的に丁寧な言語的説明を求めることなどが有効です。

以上の内容は、心理臨床では一般的なことですが、私は、知能テストの結果の解釈においてさらに重要なことは、4つの指標の得点間の差異から、被験者のストレスの発生状況を深掘りすることにあると考えます。
上記の例で言えば、言語理解が4つの指標の中で突出して高い方は、自分と同等の知能水準(全検査IQ)の人に対して、自分と同等の言語能力を有すると推測しがちであるように思います。そのため、このような人は、言語的コミュニケーションに関して、相手に過剰な正確性を期待してしまい、結果として、コミュニケーションにストレスをを感じやすい傾向にあります。このようなケースでは、ストレスの要因が言語能力の高さにあり、当事者にとって気づきにくいストレス要因であるため、ストレスによる心身の不調が長引きがちです。
一般に、特定の能力が低いことによる問題点は、学校教育において客観的な評価基準によって当事者にフィードバックされるものですが、特定の能力が高いことによってもたらされる適応障害は、当事者にとっても気づきにくく、見過ごされがちであると言えるでしょう。
そのようなケースでは、その当事者の真の才能が発揮されず埋没されている可能性もあります。
世間では、知能テストは、IQを測るための検査であると誤解されているように感じますが、知能テストは、単に、IQや能力の高低を測るだけではなく、その人の傾向や能力の高さからもたらされる悩みやストレスを検討する上で有効なものではないでしょうか。
背が高いからこそ天井が低く感じる、そのような生きづらさをじっくり考える場が、現代においてはとても重要だと私は考えています。