- カウンセリング2026.09.27
番外編)その3 人前での発表が得意な人 「注目を力に変える」
教室の前に立つと、急に堂々とする同級生がいました。ふだんはそれほど目立たないのに、発表になると声がよく通り、勢いに乗って話し切ってしまう人です。多くの人が緊張で固くなる場面で、むしろ集中力が上がっていきます。みんなが自分を見ているということが、そのまま力になっているように見えます。
小学校のころ、この子たちは真っ先に手を挙げます。学芸会では大きな役をやりたがり、クラスの前で話すことを楽しみます。ただ、周りから「目立ちたがり」と言われることもあります。先生から頼りにされる一方で、友達から少し浮いてしまう。前に出ることが好きなだけなのに、それを恥ずかしいことのように感じさせられた子もいたかもしれません。
中学校に入ると、多くの子が急に人前を意識するようになります。心理学者デイヴィッド・エルカインド(David Elkind)は、思春期には「周囲の人が自分を見て、評価している」と感じやすくなることを「想像上の観客」と呼びました。後の研究では、この考え方をそのまま単純には扱えないことも分かっていますが、思春期に人目への意識が強まりやすいという現象自体には思い当たる人も多いでしょう。周囲が一斉に恥ずかしがるようになるなかで、変わらず前に出る子は、ますます目立ちます。「調子に乗っている」と言われ、この時期に一度、人前に出ることをやめてしまう子もいます。
高校生になると、この力は少しずつ居場所を見つけます。文化祭の司会、生徒会、部活動のキャプテンなど、前に立つこと自体が役割になる場面が増えるからです。社会心理学者ロバート・ザイアンス(Robert Zajonc)は、人の存在によって普段からよく身についた反応は出やすくなり、不慣れな反応はかえって出にくくなるという「社会的促進」の考え方を示しました。人前だから必ず上手になるわけではありません。むしろ、何度も前に立ち、話すことが自分の得意な反応になっていくほど、観客の存在を力として使えるようになるのでしょう。生まれつきの度胸だけでなく、場数にも意味があるのだと思います。
大学では、ゼミ発表や面接など、人前で話す力が改めて試されます。ここで面白いのが、ハーバード・ビジネス・スクールのアリソン・ウッド・ブルックス(Alison Wood Brooks)の研究です。多くの人は、本番前の不安には「落ち着く」ことがよいと考えます。しかし、スピーチの実験では、自分に「落ち着いている」と言い聞かせた人より、「わくわくしている」と言い換えた人のほうが長く話し、第三者から説得力や自信があると評価されました。不安を消すのではなく、高ぶった状態の意味を変えるのです。発表が得意な人のなかには、この切り替えを自然にしている人がいるのかもしれません。
社会に出ると、この人たちは会議やプレゼンテーション、営業などで力を発揮します。番外編その1の「友達作りが得意な人」との違いも、ここで見えてきます。友達作りが得意な人は、相手との距離を縮めます。発表が得意な人は、多くの視線を一つの方向へ集めます。前者が相手とのあいだを近づける力だとすれば、後者は自分の熱を遠くまで届ける力です。同じ「人を動かす力」でも、少し向きが違うように思います。
ただ、大人になっても誤解はついて回ります。「話がうまいだけで中身がない」と見られることがあります。実際には、見えないところで練習を重ね、構成を何度も直している人もいます。本番が自然に見えるほど、その準備は見えません。また、発表が上手な人は「いつでもできる人」と思われ、次々と前に立つ役を任されることがあります。本番では高い集中力を発揮できても、終わったあとにはどっと疲れる人もいます。人前に強いことと、疲れないことは別の話です。
自分を出し切ることや、人の注目を集めることは、学校ではあまり教えてくれません。むしろ、目立ちすぎず周りに合わせることを学んできた人のほうが多いかもしれません。もし子どものころに「目立ちたがり」と言われて傷ついた方がいたら、前に出たいという気持ちまで恥じる必要はなかったのだと思います。どれほど良い考えや良い製品があっても、誰かがそれを人に伝え、注意を向けてもらわなければ広がりません。教室の前で堂々としていたあの同級生は、注目を恐れるのではなく、注目を力に変える方法を、誰よりも早く練習していたのかもしれません。
- カウンセリング2026.09.27
番外編)その2 宿題をサボるのが得意な人 「本音と建前を見抜いている」
夏休みの最終日や、提出日の朝の教室を思い出してみてください。ほとんど手をつけていなかったはずなのに、要点だけ押さえて、なぜか間に合わせてしまう同級生がいたのではないでしょうか。宿題をサボること自体は、もちろん褒められたことではありません。ただ、あの同級生たちのなかには、単に怠けていたのではなく、人やルールを驚くほどよく見ていた人がいたように思います。
小学校のころ、この子たちはよく叱られます。忘れ物が多い、提出が遅い、と通知表に書かれることもあります。けれども、よく見ると、先生の本音と建前をよく見ています。「全部やってきなさい」と言って、本当に全部を見る先生なのか。いま本気で怒っているのか、決まりとして注意しているだけなのか。ここを省いたら、最悪どうなるのか。そして、サボったあとに、先生や友達が自分を見捨てないかどうかまで、子どもなりに見極めています。一方で、自分自身の予定をきちんと組み立てるのは苦手だったりします。計画、優先順位づけ、意思決定などに関わる前頭前野を含め、脳の発達は思春期を過ぎても20代まで続きます。だから宿題をしない、という単純な話ではありませんが、人を見る力と、自分を管理する力が同じ速度で育つとは限らないのでしょう。
中学校に入ると、提出物や授業態度が評価に直結し、「ぎりぎりで何とかする」やり方では何度も痛い目にあいます。そして、「やればできるのに」と言われ続けることがあります。この言葉は、励ましのようでいて、本人には重いものです。できるはずなのにやらない自分は、だめなのではないか。そんなふうに自分を責める子もいます。
高校生になると、この力は少し違う形で役に立ち始めます。試験範囲のどこが重要なのかを見抜き、限られた時間をそこに使います。友達とノートを分担し、効率よく準備する人もいます。本音と建前を見分ける目が、「何が本当に重要なのか」を探す力に変わってくるのです。ただ、単語を一つずつ覚えるような、どうしても省けない作業には苦しみます。近道のない道は、昔から得意ではありません。
大学では、自由が一気に増えます。出席も課題も、自分で管理しなければなりません。締め切りの前夜に徹夜したり、単位を落として肝を冷やしたりしながら、自分なりの力の配分を覚えていきます。スタンフォード大学の哲学者ジョン・ペリー(John Perry)には、「構造化された先延ばし」という随筆があります。先延ばしをする人は何もしないのではなく、いちばん気の重い仕事を避けながら、別の重要な仕事を次々と済ませてしまう、というものです。試験前になると突然部屋を片づけたくなる、あの現象を、哲学者らしい皮肉とユーモアで言い当てたこの随筆で、彼は2011年にイグ・ノーベル文学賞を受賞しました。
社会に出ると、この人たちは環境によってかなり違う姿を見せます。人に雇われ、決められた手順を一つずつ正確に進めることが求められる仕事、たとえば経理で数字を一つひとつ確かめていくような作業では、省きようがなく、苦しむ人がいます。一方で、自分で優先順位を決められる立場では、「これは今やる」「これは誰かに任せる」「これはやらなくてもいい」と大胆に決められます。とくに経営の立場に立つと、限られた時間や人やお金をどこに使うかを決めることが仕事の中心になるので、この判断力がそのまま才能として生きてきます。子どものころ「どこまでサボって大丈夫か」を考えていた頭が、大人になると「どこに力を集中すべきか」を考える頭に変わることがあるのです。
もちろん、サボる判断はいつも当たりません。省いたところが後になって問題になり、そのツケを払うこともあります。臨床の場では、大人になっても締め切りを守れず、周りの信頼を少しずつ失って苦しんでいる方にもお会いします。子どものころのサボりが、大局を見る力に育つのか、それとも無責任の癖のまま終わるのか。その分かれ目は、どこかで手痛い代償を払い、他人の信頼の重さと自分の力の限界を知ったかどうかにあるように思います。そして、先延ばしの背景は単なる怠慢とも限りません。心理学では、嫌な課題によって生じる不安や不快感をいったん遠ざけ、目先の気分を楽にする行動として先延ばしを捉える研究があります。完璧にやりたい気持ちが強いほど、なかなか始められない人もいます。本人自身が「怠け者だから」と思っていても、実際には不安の処理に多くの力を使っていることがあります。
産業医として多くの職場を見ていると、すべてを重要だと思い、全員が全力で走り続けて、組織そのものが疲れていることがあります。そんなとき、「これは本当に必要ですか」と言える人は案外貴重です。もし子どものころに「やればできるのに」と言われ続け、自分を責めてきた方がいたら、当時のやり方を全部肯定する必要はありません。ただ、人の本音や、ルールの本当の境界や、力を入れるべき場所を探していたことまで否定しなくてよいのだと思います。宿題をうまくサボっていたあの同級生は、力の配分という、学校ではあまり教えてくれない問題を、少し早く考え始めていたのかもしれません。
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番外編)その1 友達作りが得意な人 「誰にでも同じ態度でいられる」
クラス替えの初日を思い出してみてください。まだ誰とも話せずに席に座っていたとき、もう何人かと楽しそうに笑っている同級生がいたのではないでしょうか。この連作ではこれまで、国語、数学、図画工作、社会、理科、音楽と、教科の得意について書いてきました。番外編では、通知表には載らなかったけれど、大人になると大きな力になるものについて考えてみます。これも心理学で確立された能力分類ではなく、多くの方とお会いするなかで私が感じてきたことを整理したものです。また、子どものころの姿が、そのまま大人の姿になるわけでもありません。年齢を重ねるにつれて、同じ力がどのように形を変えていくのかを考えてみたいと思います。
小学校のころ、友達作りが得意な子は、誰とでも遊びます。クラスの人気者とも、一人でいることの多い子とも、同じように話します。先生に対しても友達に対しても、あまり態度を変えません。大人から見ると、ときに「なれなれしい」と映ったかもしれません。精神科医ハリー・スタック・サリヴァン(Harry Stack Sullivan)は、小学校高学年ごろの親しい友人との関係を「チャムシップ」と呼び、子どもが親密さや相互性を学んでいく大切な時期として考えました。友達作りが得意な子も、人と近づき、少し離れ、また近づくという感覚を、友達との毎日のなかで覚えていくのでしょう。
中学校に入ると、少し事情が変わります。仲良しのグループが固まり、どこに属しているかが大きな意味を持つようになります。誰とでも話す子は、「結局どっちの味方なの」「八方美人だ」と言われることがあります。外の人を寄せつけない空気になじめず、グループとグループの境目にいることもあります。誰とでも仲良くできるはずの子が、この時期にはかえって孤独を感じていた、ということもあるように思います。
高校生になると、部活動や委員会、文化祭などで、違うグループの人と一緒に動く機会が増えます。ここで少しずつ、自分の意見を言いながら、相手との関係も壊さないやり方を覚えていきます。友達作りが得意な大人は、必ずしも誰にでも調子を合わせる人ではありません。「私はこう思います」「そこはあなたと考えが違います」と言いながら、普通に次の話ができる人がいます。違う意見と、嫌いになることを分けられるのです。中学時代の居心地の悪さが、この力を育てることもあるのかもしれません。
大学に進むと、世界が一気に広がります。学部も年齢も出身地も違う人と出会い、アルバイトやサークルでもさまざまな人と付き合います。ここで生きてくるのが、前に会ったときの「関係の温度」を覚えている力です。何を話したかだけではありません。どれくらい打ち解けていたかまで覚えているので、次に会ったとき、関係をゼロから始め直しません。前回、ゼロから三まで深まった関係なら、次は三から始められるのです。しばらく連絡を取らなくても気にせず、何か月ぶりに会っても、何事もなかったかのように話の続きが始まります。コミュニケーション研究者ジェフリー・ホール(Jeffrey Hall)は、友情が深まるまでに一緒に過ごす時間を調べ、気軽な友人になるまでにはおおむね40〜60時間、友人になるには80〜100時間程度、さらに親しい関係になるには200時間を超える時間が必要になることもあると報告しています。友情は、一度の会話よりも、その続きを何度も重ねるなかで育っていくのでしょう。
社会に出ると、この力はいよいよ目立つようになります。相手が社長だからといって必要以上にかしこまらず、新入社員だからといって雑にも扱いません。いい意味でなれなれしく、同時に相手への敬意を失いません。心理学者エリカ・ブースビー(Erica Boothby)らは、初対面の会話のあと、人は相手から好かれた程度を実際より低く見積もる傾向があることを示し、これを「好感の見誤り(liking gap)」と名づけました。私たちは、自分が思っている以上に相手から好意的に受け取られていることがあるようです。友達作りが得意な人は、この最初の不安にあまり邪魔されず、次の一言を出せる人たちなのかもしれません。
もう一つ、大人になった友達作りが得意な人を見ていて感じることがあります。この人たちは、実は友達そのものにはそれほど関心がないのではないか、ということです。一人ひとりの友達より、その人たちと楽しく過ごす時間や、その場の空気を大切にしているように見えます。だから、誰が誰と仲良くしても気にしませんし、大人数のグループにある暗黙の決まりや束縛を嫌って、少人数のグループにも平気で入っていきます。相手の収入や地位、高級な店やおしゃれにもあまり関心がなく、その人と話して楽しい時間を過ごせるかどうかを見ています。この人たちがいる場は、まず嫌な空気になりませんし、あとから後悔するような時間にもなりません。
ただ、大人になっても誤解はついて回ります。目上の人の前で緊張する人から見ると、偉い人と自然に話している姿が、要領よく取り入っているように見えることがあります。本人は誰にでも同じように接しているだけなのに、相手の地位をあまり気にしないことが、かえって地位を強く意識する人の反感を買うこともあります。中学校で経験したのと少し似た理不尽さに、大人になってからも出会うのです。
それでも、この人たちが一人いるだけで、職場の空気が変わることがあります。ホルト=ランスタッド(Julianne Holt-Lunstad)らが30万人を超える人を対象にした148の研究をまとめた分析では、良好な社会的つながりを持つ人は、そうでない人に比べて、追跡期間中に生存している見込みがおよそ1.5倍高いことが示されています。もちろん、友達作りが得意な人が職場の人を長生きさせる、という話ではありません。ただ、人とのつながりが健康にとって軽くない意味を持つことは確かです。産業医として面談をしていると、職場で誰とも言葉を交わせずに孤立していく方に出会います。そんなとき、何の用事もなく「最近どうですか」と話しかけられる人が一人いるだけで、救われることがあります。
もし、中学生のころに誰とでも話せるのに居場所がなく、苦しい思いをした方がいたら、その力を生かせる世界がまだ狭かっただけなのかもしれません。子どもの世界では、グループの境目が大人の世界よりはっきりしています。世界が広がれば、その境目を越えられる人が必要になります。誰とでも話すわが子を心配している親御さんがいたら、その子はいつか、人と人のあいだに橋をかける人になるかもしれないと、少し長い目で見守っていただけたらと思います。
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コラム)音楽が得意な人 その1 「圧倒的な没入力」
小学校や中学校の音楽の時間を思い出してみてください。歌い出すと急に表情が変わる同級生や、楽器を持つと人が変わったように集中する同級生がいたのではないでしょうか。音楽が得意な人の強みとして、まず思い浮かぶのは音感です。音の種類や高さ、強さ、響き方を細かく聞き分けています。私には、彼らは音を聞くだけでなく、言葉や数字や出来事まで、どこかで音に置き換えて感じているように見えます。この連作では、国語力の強い人は言葉で、数学力の強い人は数字や論理で、図画工作が得意な人は手を動かしながら、社会が得意な人は出来事を比べながら、理科が得意な人は確かめながら考える、と書いてきました。音楽が得意な人は、音の高さや強さ、響きや間を材料にして、人や場を感じているのではないかと思っています。もちろん、これは心理学で確立された能力分類ではありません。多くの方とお会いするなかで、私が感じてきたことを整理したものです。
私がいちばん注目しているのは、その圧倒的な没入力です。音楽は時間の流れのなかにしか存在できず、音は鳴った瞬間から消えていきます。演奏する人は、少し前の音を覚えながら次の音を出し、周りの音を聞きながら自分の音を重ねます。時間を忘れ、自分のことまで少し忘れて、目の前のことだけに入っていきます。心理学者のミハイ・チクセントミハイ(Mihaly Csikszentmihalyi)は、作曲家やチェス選手、ロッククライマーなどへの研究を通じて、我を忘れて打ち込み、時間の感覚が薄れ、活動そのものが報酬になる状態を「フロー」と呼びました。初期の研究対象に作曲家が含まれていたのも興味深いところです。音楽をしてきた人は、この幸福をよく知っているのでしょう。
そして、この没入力は自分だけで終わりません。音楽をしてきた人と話していると、話題はそれほど特別ではないのに、なぜか会話から抜け出せなくなることがあります。歌詞だけを読めば単純な曲でも、音の高さ、音量、テンポ、間が加わると、人はそこに引き込まれます。会話でも、さらりと流す。しんと静かにする。ぽつりと一言だけ言う。少し待ってから、一気に熱を上げる。「これをすると売れるから」より、「これ、面白くない?」が先に来るので、あまりいやらしくありません。自分が先に熱狂し、周りまで巻き込んでいきます。4歳児を対象にしたキルシュナー(Sebastian Kirschner)とトマセロ(Michael Tomasello)の実験でも、一緒に歌い、踊り、楽器を鳴らした子どもたちは、同程度の交流を音楽なしで行った子どもたちより、その後に助け合いや協力を多く示しました。ただし、後に行われた別条件のフィールド研究では同様の効果は再現されておらず、音楽そのものの効果を単純に断定することはできません。それでも、人と音を合わせることに何か特別な感覚があることは、多くの人が経験的に知っているように思います。
そして音楽は、かなり遊びに近いものです。目的地へ最短距離で進むのではなく、少し音を外してみたり、間を変えてみたり、同じ旋律を違うように弾いてみたりします。何かの役に立つから楽しいのではなく、楽しいからやるのです。没頭することも、人を没頭させることも、遊ぶことも知っている。私は、そこに音楽が得意な人の大きな強さがあるように思います。次回は、この人たちが、人の言葉ではなく、その人の「音」をどう聞いているのかを考えてみます。
コラム)音楽が得意な人 その2 「人には聞こえない音まで聞いている」
音楽が得意な人は、言葉や事実や数字や出来事を、そのまま受け取っているだけではないように見えることがあります。頭のなかで、それを音に置き換えているようなのです。「ガーン」「ドーン」「サクッ」のような分かりやすい擬音もありますが、人の感覚はもっと細かいものです。さらり、ふわり、すっと、しんと、きらり、じわり、ぽつり、すとん。重い、軽い、濁る、澄む、沈む、跳ねる、伸びる、ほどける。音楽が得意な人の中では、その分類がもっと細かいのかもしれません。ここでいう「人には聞こえない音」とは、特別な周波数が聞こえるという意味ではありません。多くの人なら気に留めずに通り過ぎる小さな違いを、意味のあるものとして拾っているということです。
考えてみれば、私たちは言葉を覚える前から、声の調子を聞いていました。2022年に発表された研究では、21の都市部、農村部、小規模社会から集めた1600を超える音声を分析し、大人向けの発話や歌と、乳児に向けた発話や歌には、文化を越えてある程度共通する音響的な違いがあることが示されています。言葉の意味が分からなくても、人は声そのものからかなりの情報を受け取っています。音楽が得意な人は、誰もがもともと持っているこの聞き方を、より細かく使っている人たちなのかもしれません。
人の声についても同じです。同じ「大丈夫です」でも、軽く言うのと、小さな声で間を置いて言うのとでは、意味がまったく違って聞こえます。トンプソン(William Forde Thompson)、シェレンバーグ(E. Glenn Schellenberg)らは、6歳児43人をキーボード、歌唱、演劇、無訓練の四群に無作為に分け、1年間後に声の抑揚から感情を読み取る力を調べました。キーボード群は、怒りや恐れの識別で無訓練群を上回り、演劇群も同程度の成績でした。一方、歌唱群では同じパターンが見られませんでした。音楽なら何でも同じ効果があるわけではなく、音の細かな違いに注意を向ける経験が関係しているのかもしれません。三人で話しているときにも、誰の声が少し強くなったか、誰が話そうとしてやめたか、誰か一人だけテンポが違うかを感じ取り、自分の声を下げたり、間を作ったりします。音楽を深く身につけた人のなかには、自分の音を目立たせるより、全体がどう鳴っているかを大切にする人もいます。私はここに、場の響きを整える力を感じます。
ただ、よく聞こえることには負担もあるのでしょう。空調の音、電話、隣の会話、キーボード、笑い声、誰かの少し険しい声。会社は、考えてみればかなり雑音だらけです。意味の分かる周囲の話し声が、記憶や集中を妨げる「無関係音声効果」はよく知られています。一方、音楽家は雑音のなかから特定の話し声を聞き取る課題で、非音楽家より良い成績を示す傾向があり、2022年のメタ解析でも中程度の差が報告されています。ただし、それが音楽訓練の結果なのか、もともとの聴覚特性によるのかまでは分かっていません。人より多くの音を拾う人なら、そこから受け取る情報も多いのでしょう。よく聞こえるから、人の心の音も聞けます。よく聞こえるから、場を整えられます。でも、よく聞こえるから疲れる。その二つは、同じところから生まれているのかもしれません。次回は、この人たちの力がなぜ外から見えにくいのか、そして成果というものをどう考えればよいのかを考えてみます。
コラム)音楽が得意な人 その3 「成果は今この瞬間に出している」
音楽が得意な人には、少し不思議なところがあります。あれほど人を惹きつけられるのに、その力を自分の能力として説明するのがあまり得意ではない人がいます。会話を面白くしたり、人を話に引き込んだり、場の緊張を解いたり、つまらなかった会議を少し楽しいものに変えたり、商品やサービスにワクワクやゾクゾクする感じを加えたりできます。こう並べると、仕事のうえでかなり大きな力です。ところが本人に聞くと、「別に何もしていません」と言ったりします。おそらく本人にとっては、あまりにも自然なのでしょう。そして私は、ここに音楽が得意な人の少し違った「成果」の考え方があるように思います。
音楽は録音できます。それでも、その日にその場所で鳴った音すべてを残すことはできません。演奏者の気分、客席の空気、少し長かった間、その場にいた人たちの緊張。音は録れても、その時間そのものは録れません。けれども、それは成果がなかったということではありません。その場にいた人が夢中になった。緊張していた人がふっと笑った。退屈だった会議が少し面白くなった。その瞬間に、もう成果は出ています。あとで資料や数字として残らなくても、そこで起きた変化まで消えるわけではありません。自分の名前が残らなくても、その場全体がよく鳴ったなら満足する。そこには、成果を見せ合う世界とは少し違う美学があります。
この「その瞬間の成果」を考えるうえで、興味深い研究があります。マギル大学のサリンプア(Valorie Salimpoor)らは、強い快感を覚える音楽を聴いているとき、報酬に関わる線条体でドーパミンが放出されることをPETで示しました。さらにfMRIでは、感情が頂点に達する前の予期には尾状核が、頂点の快感には側坐核がより関わるという違いも見つかりました。つまり音楽では、強く感動する瞬間だけでなく、その瞬間を待っている時間も報酬の一部になりうるのです。ワクワクする。ゾクゾクする。なぜかもう一回聴きたくなる。そういう感覚そのものが、その場で生まれた成果だと考えることもできます。
ただし、その力には代償もあります。人の声を細かく拾い、場のテンポを感じ、自分自身も深く入り込む人は、やはり疲れます。仕事に追われれば、自分を元気にしていた音楽を楽しむ余裕まで失ってしまうことがあります。また、こうした人のなかには、書類や経費精算のような単調な手続きを、ひどく味気なく感じる人もいます。音楽の時間には一瞬一瞬が生きている。その時間との落差が大きいのでしょう。これは能力の低さとは別の話です。産業医としては、単に長く働けるかだけでなく、その人が自分のテンポを取り戻せる時間を残せているかも大切なのだと思います。
そして私は、音楽には「何も残らなくていい」という強さがあるように思います。一時間演奏して、終われば音は消えます。一時間楽しく話して、何の結論も出ないこともあります。それでも、その一時間が良い時間だったことまで否定する必要はありません。国語力の強い人が言葉で、数学力の強い人が数字や論理で、図画工作が得意な人が手を動かしながら、社会が得意な人が出来事を比べながら、理科が得意な人が確かめながら考えるのだとすれば、音楽が得意な人は、音の高さや強さ、響きや間を感じながら、人と時間を動かしているのだと思います。言葉や数字や物は、作ったあとにも残せます。しかし時間は、通り過ぎれば二度と戻りません。成果は、あとで残すものだけではありません。今この瞬間に誰かが夢中になり、少し幸せになったのなら、もうそこに一つの成果は出ているのだと思います。
- カウンセリング2026.09.27
コラム)理科が得意な人 その1 「想像もつかない仮説を立てる」
小学校の理科の時間を思い出してみてください。アサガオの観察日記をつけたり、振り子の長さを変えて揺れる速さを比べたり、顕微鏡をのぞいて小さな生き物に驚いたりしました。この連作ではこれまで、国語力の強い人は言葉を使って考え、数学力の強い人は数字や論理を使って考え、図画工作が得意な人は手を動かしながら考え、社会が得意な人は出来事を覚え、比べながら考える、と書いてきました。では、理科が得意な人は何を使って考えているのでしょう。私は、「確かめること」を使って考えている人たちなのではないかと思っています。もちろん、これも心理学で確立された能力分類ではありません。多くの方とお会いするなかで、私が感じてきたことを整理したものです。
理科が得意な人の考え方には、いくつかの働きが繰り返し現れます。目の前で起きていることをよく見て、何が関係していそうなのかを考え、ばらばらに見える事実を説明できそうな仮説を立てて、その仮説が現実と合っているかを観察や実験で確かめます。結果が違えば、また考え直します。一つ確かめると、今度は別の疑問が生まれます。理科が得意な人は、この輪を何度も回しながら考えているのだと思います。
数学力の強い人も、もちろん理屈で考えます。ただ、数学では、置かれた前提から何が論理的に導かれるかを考えることができます。自然科学では、それだけでは終われません。どれほど美しい理論でも、観察された現実と合わなければ、どこかを考え直さなければなりません。実験のできない分野でも、最後には観測された自然と照らし合わせます。社会が得意な人が、誰の立場から見た出来事なのかを大切にするとすれば、理科が得意な人は、見る人が変わっても同じことが起きるのかを確かめようとします。人による違いをできるだけ取り除き、そのあとに残るものを見ようとするのです。
研究には、「仕組みそのものを知りたい」という方向と、「役に立つものを作りたい」という方向があります。科学政策の研究でも、この二つは別々の軸として整理されてきました。理科が好きな人のなかには、「それは何の役に立つのですか」と聞かれるよりずっと前に、「なぜこうなるのだろう」と考え始めている人がいます。役に立つかどうかは、まだ出発点に入っていないのです。
私が理科が得意な人をいちばん尊敬するのは、ありふれた現象から、こちらには想像もつかない仮説を立てるところです。ニュートンとリンゴの話が今も残っているのも、リンゴが落ちることそのものではなく、そこから地上の物の動きと天体の運動を同じ仕組みで説明できるのではないかと考えた、その飛躍が驚くべきものだからでしょう。誰にでも見えている小さな現象から、誰にも見えていない仕組みを想像しています。
科学哲学には、驚くような事実を前にして、「もしこういう仕組みなら説明できるのではないか」と仮説を立てることを、「アブダクション」と呼ぶ考え方があります。演繹は、前提から筋道をたどって結論を導く考え方です。帰納は、たくさんの事例から共通する傾向を見つけます。アブダクションは少し違っていて、目の前の不思議をうまく説明できそうな仮説を、まず考えてみるところから始まります。もちろん、思いついただけでは科学にはなりません。その仮説が正しければ何が起こるはずかを考え、観察や実験で確かめていきます。理科が得意な人のすごさは、正しい答えをたくさん知っていることより、「もしかすると、こうなんじゃないか」と思いつき、しかも自分でそれを疑い、確かめにいけることにあるのかもしれません。
次回は、この人たちがなぜ、確かめずにはいられないのか。そして、その性質が職場でどんなすれ違いを生むのかを考えてみます。
コラム)理科が得意な人 その2 「確かめずにはいられない」
理科が得意な人の力のなかで、私は「確かめる」という部分にとても惹かれます。人から「こうです」と説明されても、それだけではなかなか終われません。「本当にそうなのか」と、自分でも見てみたくなるのです。
学校の理科では、条件をできるだけそろえて、一つだけ変えて比べる実験を習いました。振り子の長さを変えるなら、おもりの重さや振れ幅はなるべくそろえます。実際の科学はもっと複雑ですし、すべての条件を完全にそろえられるわけでもありません。それでも、「ほかの理由ではないのか」「本当にこれが関係しているのか」と、一つずつ確かめていく考え方は変わりません。
ところが職場では、この姿勢がすれ違いを生むことがあります。新しい取り組みを始めるときに「とりあえずやってみよう」と言われると、何と比べるのか、何をもってうまくいったとするのか、ほかの条件は変わっていないのかが気になります。会議で意見を求められて「まだ分かりません」「データが足りません」と答えると、その誠実さが決断力のなさに見られてしまうこともあります。スピードを求められる場面ほど、確かめたいという気持ちは、「慎重すぎる」「細かい」「腰が重い」と受け取られがちです。
ほかの力を持つ人とのあいだにも、すれ違いがあります。数学力の強い人のきれいな理屈を聞けば、「現実でも本当にそうなるのだろうか」と考えます。国語力の強い人の説得力のある言葉を聞いても、「それは確かめられるのだろうか」と思います。社会が得意な人の印象的な出来事を聞けば、「ほかにも同じことが起きているのだろうか」「たまたまではないのだろうか」と尋ねたくなります。相手からすれば、水を差されたように感じるかもしれません。それでも本人にとっては、確かめていないことを確かなこととして扱うほうが落ち着かないのです。
そして面白いのは、慎重に見えるこの人たちが、予想が外れることを必ずしも嫌がらないことです。もちろん何か月も続けた実験が失敗すれば落ち込むでしょう。それでも、「失敗した」で終わらず、「なぜこうなったんだろう」と考え始める人がいます。予想通りの結果より、予想外の結果のほうが面白いことさえあります。外れた仮説まで次の材料になるので、なかなか実験が終わりません。
このあたりまで来ると、周りには少し迷惑です。新しいやり方を思いつけば試したくなり、うまくいかなければ条件を変えてもう一度やります。本人にはすべて意味のある確認でも、周囲から見れば「また始まった」と感じることもあるでしょう。本人は楽しくても、付き合う社員は大変です。産業医としては、振り回される側の疲れにも目を配らなければなりませんし、安全に関わることであれば、「実験だから」で済ませるわけにはいきません。
それでも正直に言えば、私はこういう人たちに敬意と親しみを覚えます。少し面倒で、少し迷惑なのに、話を聞いているとこちらまで面白くなってくるのです。
医師の仕事にも、これに近いところがあります。診察で見たり聞いたりしたことから見立てを立て、治療を行い、その反応を見て考え直します。産業医として研究や開発の仕事をしている方と面談すると、何か月も続けた実験がうまくいかず、それでも原因が分かるまではやめられない、と話されることがあります。疲れているのに、実験の話になると少し楽しそうなのです。
確かめずにはいられない人は、職場では遠回りに見えることがあります。しかし、確かめる人が誰もいない組織は、「たぶんそうだろう」という思い込みのまま、ずいぶん遠くまで進んでしまうことがあります。「本当に?」と一度立ち止まる人がいることには、大きな意味があります。
次回は、その「本当に?」が止まらなくなったとき、この人たちに何が起きるのかを考えてみます。
コラム)理科が得意な人 その3 「終わらない実験」
理科が得意な人の実験には、なかなか終わりが来ません。一つ確かめて新しいことが分かると、そこからまた別の疑問が生まれます。「では、これはどうなんだろう」と新しい仮説を立て、また確かめます。ようやく答えにたどり着いたと思ったところから、次の実験が始まります。これを繰り返しているうちに、本人にとっては、答えそのものよりも確かめている時間のほうが楽しくなっていることさえあるように見えます。
心理学にも、好奇心が強いときほど、その答えを覚えやすくなり、その途中で触れた情報まで記憶に残りやすくなるという研究があります。「知りたい」という状態そのものが、学ぶ力を高めているようなのです。もちろん、だから研究者が寝食を忘れるのだ、と単純に説明できるわけではありません。それでも、何かを知りたいという気持ちそのものが、人をかなり強く動かすことは分かります。
そのために、仕事では報われにくいこともあります。まだ分からないことには驚くほど集中できるのに、一度仕組みが分かってしまうと、同じものをたくさん作ったり、手順を整えたり、少しずつ利益を積み上げたりする仕事には、急に興味を失ってしまう人がいます。もちろん、理科が得意な人がみんなそうではありません。ただ研究や開発をしている方と話していると、「分からないこと」が残っているあいだは、疲れていてもやめられないという人に出会います。
そして、ここには少し厄介なところもあります。仕組みを見つけるところまでは夢中だったのに、そのあとに続く運用や改良には関心が薄れ、残された仕事を周りの人が引き受けることがあります。本人には「もう分かったこと」でも、組織にとっては、そこから安定して続ける仕事が始まります。新しいものを見つける人と、それを育てていく人は、同じでなくてもよいのだと思います。ただ、その役割の違いに本人も周囲も気づいていないと、知らないうちに誰かへ負担が偏ってしまいます。
会社から見れば、「それは何の役に立つのか」「いつ成果になるのか」と聞きたくなるのは当然です。産業医としても、のめり込みが長時間労働につながれば止めなければなりません。それでも本人は、まだ役に立つかどうかさえ分からないところに一番わくわくしています。結果が出ない時間を、周りは「無駄」と呼ぶかもしれません。しかし、役に立つことを目的にしていなかった研究が、ずっとあとになって暮らしを変えた例もあります。だから、この一見無駄に見える時間を、全部なくしてしまうのも怖い気がします。
思えば、私の仕事にも少し似たところがあります。患者さんや社員の話を聞き、いくつかの可能性を考え、関わり方を少し変えて反応を見ます。考えていたことと違えば、また見立てを変えます。この連作も同じです。一つ書き終えると、別の能力が気になってきます。一つ答えを出すたびに次の問いが出てきて、いつまでも終わりそうにありません。理科が得意な人の「終わらない実験」の楽しさとつらさは、私にも少し分かる気がします。
そして私は、ここに理科が得意な人の真骨頂があるように思います。たとえ何度実験してもうまくいかず、求めていた答えにたどり着けなかったとしても、その過程で「これは違う」と一つ分かり、「では、こっちかもしれない」と次を考えるその時間そのものに、喜びを感じられる人がいます。
もちろん、それはきれいな話ばかりではありません。成果が出なければ、研究費も時間も尽きます。長く追いかけてきた問いが、結局何にもつながらないこともあります。本人がどれほど大切な時間だったと思っていても、周りからは「成果がなかった」と片づけられることもあるでしょう。だから、確かめ続けることは、少し残酷な賭けでもあります。
それでも、極端に言えば、一万回試して答えが出なかったとしても、一万回分、昨日まで知らなかったことを知ることができます。「答えにたどり着けなければ全部失敗だった」とは考えない人がいます。結果だけで人生を測る世の中で、その感覚を持てることを、私は少しうらやましく思います。
理科が得意な人が確かめることをやめないから、私たちは思い込みを少しずつ修正し、昨日よりほんの少しだけ世界のことを知ることができます。役に立つかどうかも分からないことを調べ、失敗を面白がり、周りを少し振り回しながら、それでも次の実験を始める人たちがいたから、世界はここまで広がってきたのでしょう。
国語力の強い人が言葉で、数学力の強い人が数字や論理で、図画工作が得意な人が手を動かしながら、社会が得意な人が出来事を比べながら考えるのだとすれば、理科が得意な人は、確かめながら考えているのだと思います。
りんごが落ちるのを見て、「なぜだろう」と立ち止まる人がいる限り、世界にはまだ、知られていない仕組みが見つかり続けるのでしょう。
- カウンセリング2026.09.26
コラム)社会が得意な人 その1 「出来事への圧倒的な分析力」
小学校や中学校の社会の時間を思い出してみてください。歴史の教科書には、戦争や政変、発明や災害など、たくさんの出来事が出てきます。そして同じ出来事でも、どの国から見るか、誰の立場から見るか、どこまでの時間を切り取るかによって、意味はずいぶん変わります。この連作ではこれまで、国語力の強い人は言葉を使って考え、数学力の強い人は数字や論理を使って考え、図画工作が得意な人は手を動かしながら考える、と書いてきました。では、社会が得意な人は何を使って考えているのでしょう。私は、その一つが「出来事」なのではないかと思っています。
もちろん、これは心理学で確立された能力分類ではありません。産業医や医師として多くの方と話してきたなかで、「いつ、どこで、誰に、何が起きたか」という出来事のまとまりで物事を考えることに長けた人がいるように感じるのです。この連作では、そういう人をひとまず「社会が得意な人」と呼ぶことにします。
歴史を考える力については、教育学にも興味深い研究があります。歴史家は史料を読むとき、誰が書いたものかを確かめ、複数の史料を照らし合わせ、その出来事が起きた時代や場所の文脈に置いて考えます。一つの出来事を複数の立場から見ることも、歴史的思考の大切な要素です。歴史家のE・H・カー(E. H. Carr)が歴史を「現在と過去との対話」と捉えたのも、過去の事実そのものが変わるという意味ではなく、どの事実に目を向け、どんな問いを立て、どう結びつけるかによって、歴史の見え方が変わるということなのでしょう。
第一次世界大戦を考えてみても、軍事力や人口、同盟関係といった数字だけでは動きは見えてきません。「帝国主義」「民族主義」「同盟」といった言葉だけでも同じです。1914年6月、サラエボでオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻が暗殺され、その後、最後通牒、動員、宣戦布告が連鎖していった経過を見ると、それまで存在していた条件が、どのように戦争へつながっていったのかが見えやすくなります。暗殺事件だけが戦争の原因だったわけではありません。一つの出来事が、多くの背景を時間の流れにつなぐ節目になったのです。
私が「社会が得意だな」と感じる人は、こうした出来事の引き出しをたくさん持っています。年号や地名を覚えているだけではありません。「その前に何があり、そのあとどうなったか」という形で覚えています。そして目の前で何かが起きると、「前にも似たことがありました」と別の出来事を持ってきて、似ているところと違うところを比べます。もちろん、一つのエピソードが統計より優れているわけではありません。ただ、具体的な出来事だからこそ理解しやすく、長く記憶に残ることがあります。
医師にも、こういう人がいます。禁煙を勧めるとき、数字でリスクを説明する医師もいれば、言葉を選んで本人の気持ちに働きかける医師もいます。一方で、「以前、たばこをやめられないまま肺の病気が進み、好きだった仕事を続けられなくなった方がいましてね」と、一人の経過を話す医師もいます。それだけで禁煙できるとは限りません。それでも、その話が長く残る人はいるでしょう。
産業医の面談でも、似た違いを感じます。数字で考えることの得意な人は、「週に何回あったのか」「何か月続いたのか」と整理します。言葉の得意な人は、そのとき何を感じたのかを正確に表そうとします。出来事で考える人は、「火曜日の朝の会議で、部長がこう言って、隣の人がこちらを見て、そのあと誰も何も言わなくなりました」と話します。聞いている私にも、その場面が浮かびます。
どれが正しいということではありません。数字でなければ見えないものがあります。言葉でなければ伝わらないものがあります。そして、出来事として順番に聞かなければ分からないこともあります。社会が得意な人は、一つの出来事を一つの見方で終わらせず、誰から見たのか、その前後に何があったのか、別の出来事とどうつながっているのかを考えます。次回は、その人たちが出来事をどう区切り、どう作っていくのかを考えてみます。
コラム)社会が得意な人 その2 「企画力がすごい」
朝起きてから夜眠るまで、本当は時間に切れ目などありません。それでも私たちは、「朝食」「通勤」「会議」「昼休み」「帰宅後の食事」というように、一日の流れをいくつもの出来事に分けて覚えています。
認知心理学には、これに近い研究があります。人間は連続して起きていることを、そのまま一本の流れとして記憶するのではなく、意味のあるまとまりに自然に区切っています。これを event segmentation と呼びます。目的や場所が変わったり、それまでの予想が外れたりすると、そこが出来事の境目になりやすく、こうした区切りをうまく捉えられる人ほど、その後の記憶が良いことも報告されています。
もちろん、「社会が得意な人ほど event segmentation の能力が高い」と証明されているわけではありません。ただ、私が社会を得意だと感じる人は、時間の流れに節目を作るのが上手なように見えます。入社した日、初めて大きな仕事を任された日、部署が変わった日、誰かが辞めた日。節目をよく覚えていて、次にどんな節目を作ればよいのかも考えています。
物事を決めるときにも、その特徴が表れます。たとえば在宅勤務を続けるか、出社を増やすかを話し合うとします。数字を重んじる人は、通勤時間や生産性、オフィス費用を比べます。言葉を重んじる人は、「この会社にとって働きやすさとは何か」を考えます。出来事を重んじる人は、在宅中に新人が一人で困っていたことや、子育て中の社員が働き続けられたこと、全員が集まった日に思いがけず話が進んだことなどを思い出し、「これから、どんな日を増やしたいのか」と考えます。
目標の立て方にも違いがあります。「売上を10%伸ばす」は数字の目標です。「お客様が安心できる会社にする」は言葉の目標です。一方、「来年の春、新しい店を開けて、最初のお客様をみんなで迎える」という場面そのものが目標になる人もいます。その日に誰がいて、何が起きるのかが、本人を強く動かすのです。
この力がもっともよく表れるのが、企画だと思います。会社の創立記念の催しを開くとします。言葉の得意な人は、良いテーマやメッセージを考えます。数字の得意な人は、予算や人数、時間を組み立てます。出来事を考えるのが得意な人は、その日に参加した人が何を経験するのかを考えます。誰が迎え、誰と再会し、どこで笑い、帰り道に何を話すのか。一日を出来事の連なりとして組み立てていきます。送別会や花見、社員旅行が、何年たっても「あの日は楽しかったね」と話題になるとき、その裏にはこういう人がいることがあります。
ただし、出来事で考えることには弱点もあります。印象の強い一つの経験が、全体を代表しているように見えてしまうことです。一人の成功例や失敗例が、百人分の統計より重く感じられることがあります。出来事をよく覚えているのは大きな強みですが、その出来事が全体のなかでどのくらい珍しいのかを知るには、やはり数字の力が必要です。
もう一つ感じるのは、端的に話すことの難しさです。「1603年に徳川家康が江戸幕府を開いた」と一行で言うことはできます。しかし、その出来事がなぜ重要なのかを説明しようとすると、その前に何があり、そのあと何が起きたのかも話したくなります。出来事は、ほかの出来事との関係のなかで意味を持つからです。そのため、話は面白いのにプレゼンでは時間を使い切ってしまう人がいます。
数字や言葉は、必要な部分を取り出して扱うことができます。けれども出来事は、前後を切り落としすぎると別の出来事になってしまいます。社会が得意な人が話を長くしてしまうのは、単に話好きだからではなく、その出来事が出来事として成り立つ範囲を、できるだけ壊したくないからなのかもしれません。
コラム)社会が得意な人 その3 「素晴らしい思い出をたくさんもっている」
社会が得意な人と仕事をしていると、時計で動くことを窮屈に感じている人がいることに気づきます。話が盛り上がっているのに会議を終えなければならない。あと少しで仕事が片づくのに、次の予定に移らなければならない。本人にはまだその出来事が終わっていないのに、時計によって終わりを告げられます。
行動科学には、これによく似た「clock-time」と「event-time」という考え方があります。セリエ(Anne-Laure Sellier)とアヴネット(Tamar Avnet)は、時計を手がかりに次の行動へ移る方法と、一つの活動が終わったという感覚を手がかりに次へ移る方法を区別して研究しています。前者は効率を重視する目標と、後者は一つのことをきちんとやり遂げようとする目標と結びつきやすいことが示されています。また、event-time型の進め方は、自分の行動が物事につながっているという感覚や、楽しい気持ちを十分に味わうこととも関連すると報告されています。もちろん、社会が得意な人がevent-time型だと証明されているわけではありません。ただ、私が「出来事を大切にする人」と感じる人たちと、どこか重なるところがあります。
こういう人は、出来事を楽しむだけでなく、出来事を作る側にも回ります。送別会の日程を決め、店を探し、久しぶりの人に声をかけます。誰かが入社すれば歓迎の場を作ります。職場ではこうした役割が正式な仕事として評価されないこともあり、みんなが「楽しかった」と帰ったあと、一番疲れているのが企画した本人だった、ということもあります。
つらい出来事にも、何かしらの区切りを必要とする人がいます。謝罪してほしい。最後にきちんと話をしたい。お別れの場を作りたい。言葉で「終わりました」と言われても、本人のなかではまだ終わっていないのです。
心理学には、少し興味深い研究があります。ノートン(Michael Norton)とジーノ(Francesca Gino)は、死別や失恋などの喪失を経験した人が行った儀式や、実験で一定の儀式を行った場合の反応を調べました。儀式を行った人では悲しみが軽くなり、その効果には「自分で状況を少し取り戻せた」という感覚が関係していました。
もちろん、失恋した友人を居酒屋に連れて行くことと、研究で扱われた儀式は同じではありません。それでも、どこか似ています。振られた理由を分析するのでも、完璧な励ましの言葉を探すのでもなく、「今日はとにかくおいしいものを食べよう」と連れ出す人がいます。悲しい出来事を消すことはできません。でも、そのあとに別の出来事を作ることはできます。人は過去を書き換えられなくても、その続きを作ることはできるのです。
うれしい出来事についても同じです。誕生日なら、メッセージだけで十分な人もいます。それでも、一緒に店を選び、食事をして、帰り道まで含めて「良い誕生日だった」と感じる人がいます。旅行や花見、同窓会のように、効率だけを考えればなくても困らない出来事もあります。それでも私たちは、わざわざ時間とお金を使ってそういう日を作ります。
社会が得意な人には、この「一日を一日にする力」があるように感じます。何でもない時間に始まりと終わりを作り、人を集め、一つの出来事にします。そして、その出来事をよく覚えています。つらかった出来事にも、あとから別の出来事を重ねていきます。
だから、こういう人には良い思い出がたくさんあるのかもしれません。「あの日は楽しかった」「あの人とあそこへ行った」「あのとき助けてもらった」。人生を豊かにしているのは、正しい数字や美しい言葉だけではありません。あとになって思い出せる日が、いくつもあることも大切です。
国語力の強い人が言葉を使って考え、数学力の強い人が数字や論理を使って考え、図画工作が得意な人が手を動かしながら考えるのだとすれば、社会が得意な人は、出来事を覚え、比べ、ときには自分で作りながら考えているのかもしれません。人生が終わるころ、どれほど効率よく生きたかより、「あの日は良かった」と思い出せる日がいくつあるか。その数もまた、その人の人生を表す一つの尺度なのだと思います。
- カウンセリング2026.09.24
コラム)図画工作が得意な人 その1 「完成という言葉はない」
街を歩いていて、思わず足を止めてしまう建物があります。空港で飛行機を見上げて、あれほど大きな機体が、なぜこれほど美しい形をしているのだろうと思うこともあります。橋もそうです。両岸をつなぐだけなら、もっと無骨な形でも役目は果たせるはずなのに、つい見とれてしまう橋があります。一枚の絵や雑誌のページの組み方、ウェブサイトの余白の取り方にも、同じような美しさを感じることがあります。役に立つことと美しいことは、本来別の条件です。それが一つの形のなかで両立しているのを見るたびに、これを作った人の頭と手のなかでは、いったい何が起きていたのだろうと思います。
小学校の図画工作や中学校の美術の時間に、ひときわ手が動いていた同級生を覚えているでしょうか。絵を描かせると見違えるように生き生きする人もいれば、粘土や木を前にすると黙々と手を動かす人もいました。この連作ではこれまで、国語力の強い人と数学力の強い人について書いてきましたが、あの時間に発揮されていた力もまた、大人になってからさまざまな仕事のなかで働き続けているように思います。絵を描く力、立体を組み立てる力、色や形を美しく配置する力。そのなかでも今回は、頭のなかにある像を、目に見える形として取り出す力に目を向けたいと思います。ここでは、それを「造形力」と呼ぶことにします。
造形力は、画家や彫刻家だけのものではありません。色や文字や余白を整えるグラフィックデザインやウェブデザインにも、建築や服、家具や器を作る仕事にも、車や機械や住まいを直す仕事にも、この力が働いています。外科医の仕事にも近いところがあります。手術技能の研究では、立体を頭のなかで回転させて考える心的回転などの視空間能力が、とくに経験の浅い段階では、複雑な手技の習得や成績と関係することが報告されています。一方、経験を積んだ外科医ではこの関係が弱くなるという研究もあり、話はそう単純ではありません。それでも、頭のなかで形を捉えることと、実際に手を動かすことが一つの仕事のなかで結びついている点に、私は共通するものを感じます。
ここで紹介したい研究があります。1970年代の終わり、アメリカで、本来は大学進学を控えた高校生が受けるSATを13歳で受験し、その数学または言語の成績によって同年代の上位0.5%に相当するとされた、知的能力の高い子どもたちがいました。そのうち563人について、空間能力も測定されました。それから30年以上たって、研究者たちは彼らの特許取得や査読論文の発表実績を調べました。すると、13歳のときのSATの数学と言語の成績だけを使った場合に比べ、空間能力を加えたほうが、後年のこうした成果についての予測力が有意に高まりました。別の論文では、空間能力は教育や職業の場で長く「見過ごされてきた才能」と論じられています。学校では国語や数学の力は繰り返し測られますが、空間能力を同じように測る機会は多くありません。それでも、科学や技術をはじめ、実際に物を考え、作る多くの仕事に、この力が深く関わっています。私はこの研究を知ったとき、図画工作の時間に黙々と手を動かしていた同級生の姿を思い出しました。
造形力には、形の違いに気づく力も関わっているように思います。線のわずかなずれや色の微妙な違いに、すぐ気づく人がいます。多くの人なら「なんとなく心地よい」「なんとなく落ち着かない」と感じるだけのものについて、どこを変えれば印象が変わるのかを見つけられる人もいます。もちろん、これは空間能力だけで説明できるものではありません。長い経験によって身についた知識や感覚も大きいでしょう。それでも私たちが普段、特に意識せず心地よく使っている場所や物のなかには、こうした違いに気づく人が細かなところまで考えた結果が、ずいぶん含まれているのだと思います。
ただ、細かな違いが見えることは、ときに仕事の終わりを難しくします。依頼主はすでに満足しているのに、本人だけが図面の曲線を直し続けていることがあります。求められた水準にはとうに達していても、本人にはまだ直せるところが見えています。経験を積んで目が肥えるほど、以前なら気にならなかった違いにも気づくようになります。ですから彼らにとって完成とは、心から満足した瞬間というより、納期や予算のために「ここで手を止める」と決めた瞬間になることがあります。
高い基準を持つこと自体は、決して悪いことではありません。完璧主義の研究でも、高い目標を目指す傾向と、失敗への不安や自己批判にとらわれる傾向は区別されています。バーンアウトとの関係がより強いのは、後者のほうだと報告されています。私が産業医として気にかけるのも、良いものを作ろうとする姿勢そのものではありません。「まだ足りない」が終わらなくなり、自分で仕事を終えられなくなっているときです。
作ったものを否定されたときの傷つき方にも、特徴を感じることがあります。自分で考えて選び、何度も手を入れたものほど、作品と自分との距離は近くなります。そのため「これは違います」という依頼主の一言が、ただの修正依頼以上に深く響くことがあります。納期を早めてほしい、価格を下げてほしいという相談も、依頼主にとっては条件の交渉です。しかし作り手には「そこまで手をかける価値はない」と言われたように聞こえることがあります。相手が本当にそう思っているとは限りません。それでもそう受け取ってしまうほど、自分の仕事と自分自身が近くなっている人がいます。
診察室や面談でお会いするのは、こうした力を持ちながら、そのために手を止められなくなったり、評価に深く傷ついたりしている方々です。美しいものを作れることと、どこかで手を止められることは、どうやら別の能力のようです。次回は、この人たちが国語力の強い人や数学力の強い人と仕事をするとき、なぜ話がかみ合わなくなることがあるのかを考えてみます。
コラム)図画工作が得意な人 その2 「ものづくりには数字や言葉で表せないものがある」
造形力の強い人を見ていると、考えることと手を動かすことが、はっきりとは分かれていないように感じます。ふつうは頭のなかで完成形を決めてから、それを手で作ると考えがちです。ところが実際のものづくりでは、木に鉋(かんな)をかけて初めて木目の表情が見えてきたり、粘土に触れているうちに予定とは違う形のほうがよいと気づいたりします。彼らは手を動かしては、その結果を目で確かめ、また考えて手を動かします。手を動かすことそのものが、考えることの一部になっています。
これは、比喩だけの話ではないようです。認知科学には、人間の思考は頭のなかだけで完結するのではなく、身体の動きや周囲の環境とのやり取りにも支えられているという考え方があります。ものづくりは、それがよく分かる場面の一つです。作業の途中で形が変わったからといって、最初の設計が甘かったとは限りません。実際に作ってみたからこそ分かったこともあるからです。
ただ、この進め方は依頼する側にとって扱いにくいものでもあります。依頼主は予算や納期や仕様を先に決め、その通りに仕上がることを期待します。それはもっともなことです。一方で作り手は、途中で「こちらのほうがよい」と気づくことがあります。どちらが正しいかという問題ではありません。依頼主は約束を基準に仕事を見ていますが、作り手は出来上がる物を基準に仕事を見ています。この基準の違いが、しばしば摩擦になります。
国語力の強い人とのあいだでも、似たことが起こります。国語力の強い人は、目的やコンセプトを細かなところまで言葉にできます。けれども「落ち着いているのに古く見えない」「高級感があるのに威圧的ではない」と説明されても、それがどんな椅子や建物や画面になるのかは決まりません。作り手は実際に線を引いたり模型を作ったりして、初めて「これは違う」「これならいける」と判断できることがあります。言葉が足りないのではありません。言葉で決められることと、形にしてみなければ決められないことが違うのだと思います。
数学力の強い人とのあいだには、また別のすれ違いがあります。予算や工期、重さや強度、利用する人数など、ものづくりにも数字は欠かせません。けれども、数字で示された条件をすべて満たしたものが、そのまま良い形になるとは限りません。「高齢者に使いやすく、若い人にも魅力的で、安くて丈夫で美しいものを」という依頼は、条件として書くことはできます。しかし、それをどんな一つの形にまとめるかは、数字から自動的には出てきません。しかも最後には、案ではなく一脚の椅子や一棟の建物として、実際に世の中へ出さなければなりません。いくつもの可能性から一つを選んで実物にし、その結果を引き受けるところに、ものづくりの難しさがあるように思います。
こうした違いがあるため、造形力の強い人は国語力の強い人から「あれだけ説明したのに、どうしてこうなったのか」と言われることがあります。数学力の強い人からは「あれだけ条件を整理したのに、なぜその通りに進めないのか」と不思議に思われることもあります。けれども、説明を聞いていなかったわけでも、指示を軽んじていたわけでもありません。実際に作る途中で初めて分かることがあるのです。
私は、ここに造形力の強い人の面白さがあるように思います。言葉による説明も、数字で示された条件も大切にしながら、最後には実際の物を見て判断します。線を引いてみる。触ってみる。少し削ってみる。出来上がったものを見て、もう一度考えます。長くこの仕事をしてきた人ほど、自分の目や手で確かめなければ分からないことがあると知っているのでしょう。
もちろん、いつも自分の判断を通せるわけではありません。夜遅くまで残業して帳尻を合わせたり、同じ説明を何度も繰り返したり、ときには自分では納得していない方法で仕事を進めたりすることもあります。言葉や数字で先に決められたことと、実際に作ってみて分かったことが食い違ったとき、そのあいだで苦労している人を私は何人も見てきました。それでも最後には、目の前に一つの形を作らなければなりません。次回は、そこまでして彼らが守ろうとしているものは何なのかを考えてみます。
コラム)図画工作が得意な人 その3 「それでも自分の手で作る」
造形力の強い人と話していると、効率化という言葉だけでは説明できない働き方に出会います。もっと早い方法があることは本人も知っていますし、人に任せられる作業もあります。最近はAIやデジタルの道具を使えば、短い時間で仕上がる仕事も増えました。それでも「ここは自分の手でやりたい」と言う人がいます。すべてを自分で抱え込めば長時間労働につながるので、産業医として止めなければならない場面もあります。ただ、なぜそこまで自分の手にこだわるのかを考えずに「非効率です」と片づけても、本人にはなかなか届きません。
理由の一つは、その2で書いたように、彼らが作りながら考えているからだと思います。完成品だけを見れば同じように見える二つの方法でも、作り手にとっては同じではありません。手を動かしながら気づき、少し変えては確かめます。その過程にも、作り手の判断があります。ですから作業を人や機械に任せることは、手間を減らすだけでなく、考える過程の一部まで任せることになる場合があります。「結果が同じなら早いほうがよい」という考え方だけでは、説明できない仕事があるのです。
建築家のクリストファー・アレグザンダー(Christopher Alexander)は、著書『時を超えた建設の道(The Timeless Way of Building)』で、優れた建物や場所が持つ、簡単には言葉にできない性質を「名づけえぬ質(the quality without a name)」と呼びました。それは単なる装飾の美しさではなく、人がそこにいて自然に感じられ、生き生きとしていて、全体にまとまりがあるような性質を指しています。アレグザンダーの実際の仕事にも、模型を使って建物と周囲との関係を確かめたり、現場で実物に近い模型を作って形や大きさを決めたりした例が残されています。
私はこの考えに触れたとき、ものづくりの人が「まだ違う」と言い続ける理由が少し分かった気がしました。依頼主が求める条件は仕様書に書くことができます。大きさも予算も納期も、色も必要な機能も書けます。けれども、それらを全部満たしていても「何か違う」ものが出来上がることがあります。反対に、言葉ではうまく説明できないのに、実物を前にすると「これだ」と感じることもあります。作り手が最後まで手を入れ続けるのは、仕様書には書かれていない何かを探しているからなのかもしれません。
そして、その何かは作り手自身の満足だけに向けられたものでもないように思います。椅子を作る人は、その椅子にこれから何年も座る人のことを考えます。建物を作る人は、そこを毎日通る人や、窓から外を見る人のことを考えます。服を作る人は、それを着て人前に出る人の姿を思い浮かべます。依頼主から頼まれていなくても、まだ会ったことのない使い手の身体や暮らしを想像して、ほんの少し形を変えることがあります。すべての作り手がそうだという意味ではありません。ただ、優れたものづくりには、こうした想像力が含まれていることがあるように思います。
その1で書いた、思わず足を止めてしまう建物や橋をもう一度思い浮かべてみます。私たちは、それを作った人の名前を知らないことがほとんどです。それでも、手すりの高さや曲線のわずかな違い、差し込む光の加減や手に触れたときの感触から、誰かがここまで考えたのだと感じることがあります。国語力の強い人が言葉を使って考え、数学力の強い人が数字や論理を使って考えるのだとすれば、造形力の強い人には、手を動かしながら考えるという方法があります。自分の手で作り、目で確かめ、また手を動かします。その繰り返しの先に、私たちが毎日使う椅子や服や建物があります。誰が作ったのかを知らなくても、その人が考えた跡だけは、形になって私たちの暮らしのなかに残っているのです。
- カウンセリング2026.09.20
コラム)国語力の強い人① 「自分にしか見えないものを言葉にする」
私はこれまで、国語力のとても高い人に何人も出会ってきました。作家や編集者という意味ではありません。診察室にも、産業医として伺う会社のなかにもいます。そういう方と話していると、ときどき驚くような一言が出てきます。自分の気持ちを長々と説明するのではありません。むしろ反対です。こちらも何となく感じていたことを、正確に、ときには美しく、たった一言で表します。「そうか、それだったのか」と、聞いている私まで腑に落ちることがあります。私は、こういう方々をすごいと思っています。そして少し羨ましく思うこともあります。
もちろん、これだけが国語力ではありません。学校の現代文では、文章に書かれていることを正確に読み、前後の文脈から意味を推測し、筆者の論理を追う力が問われます。弁護士が契約書や準備書面を書くときには、自分の気持ちを美しく表現することより、言葉の意味を厳密にし、読み手によって解釈が変わらない文章を書くことが求められます。教科書や論文にも同じ面があります。書き手と読み手が、できるだけ同じ意味を共有できるように文章を組み立てる力です。これも間違いなく、高度な国語力だと思います。
そのうえで、この連作では国語力のもう一つの働きに注目してみたいと思います。国語力とはどんな力なのかを考えるために、ここであえて数学力と比べてみます。2+2=4という式には、誰の顔も、いつという時間も残っていません。書いたのが誰であっても、今日書いても十年後に書いても答えは変わりません。数式では、一つひとつの違いを取り除いて共通する部分を取り出していきます。それに対して言葉には、誰が、いつ、どんな経験のなかで話したのかが残ることがあります。同じ「寂しい」でも、誰が誰に対して感じた寂しさなのかによって意味は違います。国語力の強い人は、そうした違いを読み取り、自分のなかにあるものにもできるだけ正確な言葉を与えようとします。長く書く必要はありません。何百字使っても説明できなかったことを、一文で表す人もいます。大切なのは細かさではなく、自分が感じているものと、選んだ言葉がどれだけ合っているかです。
たった一人が「私はこう感じます」と話しても、それだけで人間全体について何かを証明することはできません。百人、千人と集めて、初めて分かることもあります。でも、ほかの誰にも当てはまらないからといって、その一人の経験に意味がないわけではありません。国語力の強い人は、文章から筆者の論理を読み取ることもできますが、ときには、その人にしか見えていないものまで言葉から読み取ろうとします。そして自分自身についても、まだ自分にもよく分かっていないものを言葉にしようとします。国語力とは、正しく読み、正しく伝えるための力であると同時に、自分や他人が生きている世界を理解するための力でもあるのではないかと思います。
コラム)国語力の強い人② 「自分でも知らなかった自分を見つける」
国語力の強い人を見ていると、似たような意味の言葉を実に巧みに使い分けています。「寂しい」「心細い」「物足りない」「取り残された」「ぽっかりする」は、辞書では近い言葉でも胸のなかでは同じではありません。「寂しい」と言ってみたあとで「いや、寂しいというより、置いていかれた感じです」と言い直すことがあります。さらに考えて「置いていかれたというより、自分だけ時間が止まっている感じかもしれません」と変わることもあります。最初から正解の言葉を知っているわけではありません。言葉にしてみて、自分の感覚とのずれを確かめながら、より正確な表現を探しています。
私はこれを、ときどきピアノに似ていると思います。ピアノには白と黒あわせて八十八の鍵盤があります。けれど、八十八の音を全部知っているだけでは音楽になりません。どの音を選び、どの音と重ね、どこで強く弾き、どこで間を取るかによって、ほとんど無限の曲が生まれます。言葉も同じです。語彙の数だけで決まるものではありません。「が」と「は」、「も」と「しか」でも意味は変わります。一つの長い文で書くのか、二つに分けるのかによっても伝わり方は変わります。そして、たくさんの音を鳴らすことが優れた音楽ではないように、たくさん書くことが優れた言語化でもありません。何百字使っても表せなかったことを、一行で言い切る人もいます。私はそういう言葉に出会うと、見事だなと思います。
診察やカウンセリングでも、その過程を目の前で見ることがあります。「うまく説明できないんですが」と話し始めた方が「今、怒っていると言いましたけど、怒りというより悲しいのかもしれません」と言い直します。さらに話しているうちに「悲しいというより、自分が大切にされていなかったと気づいたことがつらいんだと思います」と変わっていきます。こちらに説明しているようでいて、本人自身もその場で初めて自分の気持ちを知っていくのです。文章でも同じことがあります。書き始めたときには考えていなかった一文が途中で生まれ「自分が書きたかったのは、これだったのか」と気づくことがあります。
ですから、言語化とは、すでに分かっていることを上手に説明するだけの力ではないのでしょう。話したり書いたりしながら、自分でも知らなかった自分を見つける力でもあります。失恋や挫折のような出来事そのものは変えられません。しかし「あの出来事は自分にとって何だったのか」は、あとから言葉によって分かることがあります。何年も苦しかった経験が、たった一つの言葉を見つけたことで少し違って見えることもあります。自分の人生を、誰かから与えられた説明ではなく、自分の言葉で理解できることは、かなり豊かなことだと私は思います。
コラム)国語力の強い人③ 「数字の向こうにある意味を考える」
国語力の強い人は数字が苦手なのだろう、と思われることがありますが、必ずしもそうではありません。ただ、数字を見るときにも、その数字が本人にとってどんな意味を持つのかを考えます。「今日は三時間も勉強した」と「今日は三時間しか勉強できなかった」では、数字はまったく同じです。「も」が「しか」に変わっただけで意味は反対に近くなります。心理学者のダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman)とエイモス・トヴェルスキー(Amos Tversky)は、人の判断が絶対的な量だけで決まるのではなく、ある基準点から見た変化にも大きく左右されることを示しました。三時間、二キロ、十万円という数字だけを取り出しても、それが本人にとって多いのか少ないのか、うれしいのか苦しいのかまでは分かりません。
数字には大きな力があります。工場や会社のような大きな組織を改善するときには、数字で全体を見る力がとても役に立ちます。売上を増やし、経費を減らし、品質を上げれば、その成果も数字で確認できます。ところが、人間を数字だけで見ようとすると説明しきれないことが残ります。産業医として面談をしていると「残業時間は先月より減っています」と説明されることがあります。数字だけを見れば改善しています。しかし本人に話を聞くと、仕事が減ったのではなく家に持ち帰っているだけだった、ということがあります。反対に残業時間は変わっていなくても、苦手だった業務から外れたことで本人はずいぶん楽になっていることもあります。数字は間違っていません。ただ、その数字だけでは本人の状態を十分に説明できないのです。
お金についても、私は少し似たことを感じます。数字を使って経営を改善し、大きな利益を生み出すことは立派な能力です。一方で、国語力によってお金を得ることには少し違った難しさがあります。たった一人の人間が、自分にしか分からないと思っていた感覚を言葉にして、小説や歌や広告などにします。それを多くの人が読み「これは自分のことでもある」と感じて、お金を払います。もちろん売上だけで共感の深さを測ることはできません。それでも、もともとは一人のなかにしかなかった言葉が多くの人に受け入れられ、結果として大きな売上になることには驚かされます。
同じ一億円でも、その一億円が何によって生まれたのかは違います。合理的な仕組みを作り、たくさんの商品を効率よく売った結果として生まれる一億円もあります。一方、自分にしか分からないと思っていた感覚を言葉にして、その言葉に多くの人が心を動かされ、結果として生まれる一億円もあります。どちらが上という話ではありません。ただ、国語力によって大きなお金を得るというのは、一人のなかにあったものが、それだけ多くの人のなかにも何かを起こしたということです。私はそこに、売上という数字だけでは分からない意味があるように思います。
コラム)国語力の強い人④ 「天敵は統計学」
診察室で、私はこの種類の苦しさを何度も聞いてきました。ある方は、とても大切なことに気づいたと感じています。時間をかけて考え、何度も言葉を選び直し、ようやく自分なりに納得できる表現にたどり着きました。それなのに、上司や同僚から「それで売上はいくら増えるのですか」「何人に当てはまるのですか」「その考えにエビデンスはあるのですか」と聞かれてしまいます。作品を作る人であれば、心を込めて書いたのに本が売れないこともあります。自分ではとてもよくできたと思っても、ほとんど反応されないこともあります。国語力の強い人がつらいのは、経済的な価値につながる保証がないだけではありません。自分がようやく見つけた言葉を、誰か一人にさえ分かってもらえないことがあります。
考えてみれば、これは不思議なことではありません。数式には誰の顔も残りませんが、言葉にはその人の経験や記憶、人間関係や価値観が入りこみます。どれほど正確に、どれほど美しく表現しても、全員が「分かります」と言ってくれるわけではありません。一編の詩を読んで涙を流す人もいれば「何がいいのか分からない」と言う人もいます。ある小説に人生を救われたという人がいる一方で、途中で読むのをやめる人もいます。数学では正しい答えにたどり着けば、多くの人にその正しさを共有してもらえます。国語では、自分にとってこれ以上ないほど正確な表現にたどり着いても、誰にも共感されないことがあります。そこにはかなりの孤独があります。
だからこそ、国語力を自分の内面に向けてきた人には、他人の言葉にも寛容な方が少なくないように私は感じています。自分の言葉が万人に通用しないことを知っているからです。自分には理解できない考えを聞いても、すぐに「間違っています」とは言わず「あなたには、そう感じられるのですね」と聞くことができます。エビデンスがなければ事実として採用することはできなくても、その人がそう考えたことまで否定する必要はありません。「その考えが正しいかどうか」と「あなたがそう考えていることには意味があるか」は別の問いです。診察やカウンセリングでは、この区別はとても大切です。
もちろん、数字やエビデンスを求めることが冷たいわけではありません。医療でも経営でも、全体に関わる判断をするときには必要です。一人の経験をそのまま世の中全体の真実だと考えるのも危険です。たった一人が「私はこう感じます」と話しても、それだけでは何の証明にもなりません。でも、証明にならないことと、その人にとって意味がないことは別です。たった一人の経験は、世の中については何も証明しないかもしれませんが、その人の人生については、とても大切なことを語っていることがあります。そして別の誰かが「私もそうです」と答えたとき、世の中全体から見れば二人になっただけです。それでも、その二人にとっては、自分だけではなかったと初めて分かる大きな出来事なのだと思います。
コラム)国語力の強い人⑤ 「たった一人の心を動かす」
哲学者のトマス・ネーゲル(Thomas Nagel)は、「コウモリであるとは、どのようなことか」という有名な問いを投げかけました。コウモリは超音波を使い、その反響を手がかりに暗闇を飛びます。人間の科学は、その仕組みをかなり詳しく説明できます。しかし、どれほど詳しく調べても、コウモリ自身にとってその世界が「どんな感じなのか」は、最後まで外側から完全には分かりません。これは、人間同士でも同じなのかもしれません。私はあなたになることができず、あなたも私になることができません。それでも私たちは、自分に見えているものを言葉にして相手に伝えようとします。完全に同じ気持ちになることはできなくても、言葉によって、お互いの人生を少しだけ知ることはできます。
私はこれまで、国語力のとても高い方に何人もお会いしてきました。そういう方が必ずしも社会的に成功しているわけではありません。収入が高いとも限りませんし、話がうまいとも限りません。むしろ「うまく言えないんですが」と何度も言い直しながら話す方もいます。それでも、ある瞬間に驚くほど正確な言葉が出てくることがあります。長年の苦しみを一言で表す方もいれば、自分がなぜその仕事を続けてきたのかを、たった一文で言い表す方もいます。私はそういう言葉を聞くと、この人は自分の人生を自分の言葉で理解しているのだなと思います。そして、ときどき少し羨ましくなります。
人生では、数字では測れないことがたくさん起こります。なぜあの人を好きになったのか、なぜあの仕事を辞めたのか、なぜあの日の一言が今でも忘れられないのかは、損得だけでは説明できません。起きた出来事そのものは変えられなくても、それが自分にとって何だったのかは何度でも考え直すことができます。そして、それを自分の言葉で表せたとき、ばらばらだった出来事が自分の人生としてつながって見えることがあります。国語力が直接お金を生むとは限りません。それでも、自分が何を大切にして、何に傷つき、なぜここまで生きてきたのかを自分の言葉で語れることは、それだけでも豊かなことではないかと私は思います。
そして、ときどき、国語力の強い人が生み出した言葉が別の一人の人生に入りこみます。自分だけの感覚だと思って書いた一文に、誰かが「私も同じでした」と返してくれることがあります。「あなたの言葉で、自分のことが初めて分かりました」と伝えられることもあるでしょう。世の中全体から見れば、たった一人が共感しただけかもしれません。しかし、自分の言葉が誰かの人生に触れたことを知った本人にとっては、大きな出来事です。自分一人のために見つけた言葉が、知らない誰かにも必要な言葉だったと分かるからです。
国語力の強い人が受け取る報酬には、お金では測りにくいものがあります。「救われました」「忘れられません」「人生が変わりました」という、相手から返ってくる言葉です。こうした言葉は毎日のように届くものではないでしょう。だからこそ、一度届いたときの喜びは大きいのだと思います。自分にしか分からないものを言葉にすることで、まず自分の人生が少し分かるようになります。そして、ごくまれに、その言葉が誰かの人生にも必要な言葉だったと知ることがあります。私は、それはかなり幸せなことではないかと思います。国語力の強い人を見ていて、ときどき羨ましくなるのは、そんな瞬間を持つことができる人たちだからなのかもしれません。
- カウンセリング2026.09.12
コラム)数学力の強い人①
多くの人には「物語のように生きたい」という願望があるように思います。例えば、大人になり誰かを愛し愛され、社会に居場所を持ち、幸せな家庭を築き、身近な人を大切にしながら年を重ね、最後は近しい人に見守られて静かに終わる。こうした一続きのストーリーがあると、人生がうまくいっているように感じられます。例えば「◯歳までに結婚する」「20代のうちに海外で働く」など筋書きを一度描いてしまうと、実際にそうならないだけで、何も悪いことは起きていないのに、物語が崩れたような不安を覚えることがあります。
一方で、物語の筋にあまりこだわらない人たちがいます。見たもの、聞いたもの、感じたことを、記号や数字に置き換えて定量的に捉える人たちです。この人たちにとって、筋書き通りに進むかどうかはさほど重要ではありません。大切なのは、何かしら数値化できるものが積み上がっているかどうかです。お金はその代表ですが、それだけではありません。喜びも、安堵も、心を動かされた瞬間も、できる限り価値として測ろうとします。人との関係も、ギブアンドテイクの収支として細かく見ていきます。経済学には、幸福感や満足度そのものを数値に置き換えて研究しようとする分野が、実際にあります。この人たちは、それをもっと身近な範囲で、日々の暮らしの中でやっているのだと思います。
具体的には、いくつもの演算を人生に対して行っています。何かを失えば引き算になりますし、一つの出会いで可能性が二倍にも三倍にもなることがあれば、それは掛け算です。逆に可能性が目減りしていく場面もあり、これは割り算にあたります。確率も重要な道具です。必ず成功する保証はなくても、成功する確率がいちばん高い道を選べば、それはほぼ約束された成功に近い意味を持ちます。人と人との距離感や立ち位置を、図形のように捉えて眺めることもあります。医師という職業には、この傾向が強く出る人が多いように思います。念のため薬を出しておく、という選択をせず、確率と根拠がそろわなければ処方を控える医師に出会うと、この数学的な思考が透けて見えることがあります。
こうした生き方は、強いストレス耐性を生みます。物語通りにいかないことに、あまり心を乱されずに済むからです。ただ、その分だけ、冷たい人、あるいは欲深い人だと誤解されることもあります。数字で測っているのは損得ではなく、自分にとって何が本当に積み上がっているか、ということなのですが、外からはそう見えにくいのだと思います。この数学力の強い人について、これから何回かに分けて、もう少し詳しく書いてみたいと思います。コラム)数学力の強い人② 「最初から、百点を狙う」
前回、数学力の強い人は、人生を物語として見るより、数字や記号に置き換え、足したり掛けたりしながら捉える、と書きました。では、その力は実際の社会でどこに現れるのでしょうか。数学や物理、工学の道に進む人も、もちろんいます。ただ、彼らの得意分野は理系の研究だけではありません。むしろ、文系の世界に入ったときに目立つのが「仕組みづくり」です。論理の筋道だけでなく、実際に運用できるか、人がどう動くか、安全か、無理なく続くかまで考えて、一つの仕組みに落とし込んでいきます。現実のシステム設計では、性能を上げればコストが増える、安全を求めれば手間が増えるというように、どこかで折り合いをつけるのが普通です。それでも彼らは、その折り合いをなるべく後ろへ押しやろうとします。「まず動かして、あとから直せばいい」では落ち着かない。できることなら、最初から百点を狙います。
しかも、自分が一時間働けば一時間分だけ成果が増える、という仕組みにはあまり魅力を感じません。一つの工夫で十人、百人の仕事が変わり、それが自分のいない場所でも、自分が死んだあとでも働き続ける方に惹かれます。良いものを一つ考えたら、何度でも使える形にしておく。足し算より掛け算、さらに条件がそろえば指数的に増えていく仕組みを選びます。一人ずつ説得するより、一人が三人に伝え、その三人がまた三人に伝える方が速い。一本の仕組みが何万人にも使われ、一つの発見が何億人にも届く。大きくなりたいからではありません。同じ目的地へ行くなら、その経路がいちばん短く、無駄がなく、そして美しいからです。
ところが、こういう大きな仕組みを考える人ほど、妙なところで細かくなります。直線とは、一度も曲がらない線です。ほとんど真っすぐでも、一箇所曲がっていれば、もう同じものではありません。洋服のラインでも、文章の一語でも、プログラムの一行でも、「だいたい合っている」で済ませにくい。足りないものだけでなく、余分なものが一つあることも気になります。数学では、必要のない項は消していきます。現実の暮らしでも同じことをすると、周囲にはどうでもよく見える一ミリや一言に、本人だけがいつまでも引っかかることになります。
この考え方がいちばん試されるのは、人の感情と、自分が出した答えがぶつかったときです。施主にどれほど急かされても、安全率を簡単には下げない技術者がいます。医師も、患者様がとてもつらそうだからという理由だけで、必要性の乏しい薬を増やすわけにはいきません。もちろん、心が痛まないわけではありません。ただ、その場の苦しさを少し減らした結果、あとでもっと大きな問題が起きると考えるなら、そちらを選べないのです。そこで妥協することは、自分の式を汚すだけではなく、目の前の相手に対しても不誠実になる。そう考えます。現実には、数学の問題のように唯一の正解があるとは限りません。それでも、条件を一つずつ整理し、できるだけよい答えへ近づこうとする。心が揺れていても、式の方から目を離さない。その一貫性が、ときに冷たく見え、同時に、妙に安心して任せられる理由にもなるのだと思います。
精神科の世界にも、これによく似た人がいました。安永浩先生です。統合失調症の精神病理を説明するために打ち立てた「ファントム理論」を読むと、複雑極まりない人間の精神現象を、驚くほど少ない原理と図式で捉えようとしていることに気づきます。体験の距離や関係を空間として捉え、そこから症状を説明していく。内容は難しいのですが、構築物として眺めると、不思議なほど整っています。精神医学なのに、どこか幾何学を見ているようなのです。
数学的な才能を持つ人は、おそらくどの分野にも現れます。数字をたくさん扱う人、という意味ではありません。複雑で、ごちゃごちゃして、とても一つの答えなどなさそうなものを前にしても、「ここにはきっと、もっと単純な構造がある」と考えてしまう人です。そして、一度その構造が見え始めると、途中でやめられない。百点など存在しない現実の世界で、それでも百点の式を作ろうとする。その少し無謀なところまで含めて、私は「数学力の強い人」と呼びたくなるのです。コラム)数学力の強い人③ 「センスの正体は、計算である」
このことに気づいたのは、精神科医、そして産業医として働く中で、いろいろな職業の方から仕事の話を伺ってきたからです。数学とはいちばん遠いところにいるように見える人ほど、ときどき驚くほど数学的なことをしています。優れた料理人は、目の前の味だけを見ているわけではないそうです。このあと火を入れたらどう変わるか、時間が経てば香りがどう立つか、最後にどこへ着地するかまで見ています。今の値ではなく、そこからどちらへ、どのくらい変わっていくかを見る。数学でいえば、微分に少し似ています。
工場の品質管理では、また別の数学が使われます。完成品の平均的な出来がよいかどうかだけではなく、日々の値がどれくらい揺れているかを見るそうです。平均は変わっていなくても、ばらつきが大きくなれば、どこかで工程が不安定になり始めている可能性があります。目の前の数字そのものより、その数字が時間の中でどう振る舞っているかを見る。こちらは微分というより、分散や確率の世界です。
指揮者の仕事は、さらに複雑です。一人ひとりが完璧に演奏すれば、全体が完璧になるわけではありません。ある音を少し前に出せば、別の音の聞こえ方まで変わる。速さを変えれば、響きも変わります。百人近い演奏者を一人ずつ足し合わせているのではなく、たくさんの変数を同時に動かしながら、全体がもっともよくなる一点を探している。数学でいえば、多変数の最適化に近いのでしょう。もちろん指揮者自身が、そんな計算式を頭に浮かべているわけではありません。それでも、やっていることだけを取り出せば、かなり数学的です。
政治の世界でも似たものがあります。支持率が高いか低いかという現在地だけでなく、それが今どちらへ動いているか、どの層から変化が始まったか、一つの言葉がどこまで波及するかを見る。さらに、ときには数字そのものではなく、相手にどんな計算をさせるかまで考えます。2022年、急激な円安が進んだとき、当時の神田財務官は、円買い介入について「原資は無限にあると思っている」と述べました。本当に無限の資金があるという意味ではありません。むしろ「どこまでなら耐えられるのか」という計算そのものを相手にさせにくくすることに、この言葉の力があったのではないかと思います。数字を示さないことまで、計算の一部になるわけです。
こうして見ていると、私たちが「センス」と呼んでいるものの中には、かなり複雑な計算が隠れているように思えます。料理人は変化の方向を読み、品質管理者はばらつきを読み、指揮者は大量の変数を同時に調整し、政治家は人の反応がどこへ波及するかを読む。本人たちは、いちいち数式を書いているわけではありません。長い経験の中で、その計算があまりに速くなり、意識に上らなくなっているのでしょう。
私たちは、考え込んでいる人を見ると「論理的だ」と言い、瞬時に正しいところへ手を伸ばす人を見ると「センスがある」と言います。でも、この二つは本当に別物なのでしょうか。何百回、何千回と計算した結果、途中の式を書かなくても答えが見えるようになっただけなのかもしれません。センスとは、数学力がないことの反対ではなく、数学力が体に馴染みきって、もう計算しているようにさえ見えなくなった状態なのだと思います。コラム)数学力の強い人④ 優しさも、怖さも、同じ精密さから
これまで、数学力の強い人について、一つの答えに近づこうとすること、仕組みを作ること、そして見えないところで高速に計算していることを書いてきました。ここで書いているのは、あくまで私がこれまで出会ってきた人たちを思い浮かべながら感じてきたことです。素晴らしい方が多い、というのが率直な印象です。では、その人たちは、仕事や計算から少し離れたとき、どんな顔を見せるのでしょうか。
彼らと話していて心地よいのは、話がまっすぐなことです。回りくどい前置きや、感情を盛るための言葉が少なく、要点がそのまま届きます。こちらが少し苛立っていても、素っ気ない態度を取ってしまっても、その表面だけに強く反応せず、中身を拾ってくれることがあります。言葉の形より、そこに何が入っているかを見る。だからこちらも、必要以上に身構えずに話せるのだと思います。
ところが、数字や仕事から離れると、驚くほどおおらかになる人がいます。ふだんは細部まで厳密なのに、私生活では「まあ、なんでもいいよ」と笑っている。あれほど一ミリにこだわっていた人が、別の場面では本当に細かいことを気にしない。その落差には、少し驚かされます。経営者として日頃は一円単位まで管理している人が、孫のお年玉には相場を大きく外れた金額を包んでしまう、という話も聞いたことがあります。たぶん、そこには最適化すべき目標も、守るべき精度もないのでしょう。正解を出す必要のない場所では、正解を探さなくていい。そのとき初めて、精密さから降りて、ただ情感のままにいられるのかもしれません。
一方で、仕事ではまったく違う顔を見せることがあります。私が出会ってきた中にも、普段は静かなのに、本気で怒ると驚くほど怖い人がいました。声を荒げるわけでも、感情的にまくし立てるわけでもありません。ただ、普段は相手や状況を見ながら細かく調整している人が、その調整を外すと、言葉も態度も急に一直線になります。相手が誰であっても、それまでどれだけ評価していたとしても、必要だと判断したところまで踏み込む。ふだんの精密さを知っている人ほど、その落差を強く感じるのだと思います。
そして、もう一つ彼らを疲れさせるものがあります。周囲の人たちが、そもそも別の言語で考えていることです。曖昧なまま話を進める。結論を出さずに会議を終える。合理性より、その場の納得感を優先する。多くの人にとっては自然なことでも、数学的に物事を見る人には、かなり遠回りに見えることがあります。同じ話が何度も繰り返されたり、論点とは別の感情で結論が動いたりすると、そこに小さな苛立ちが積み重なっていく。正しさの問題ではありません。使っている思考の言語が違うだけなのでしょう。
こうして見ていると、彼らの優しさと怖さは、案外遠いものではないのかもしれません。細部まで見えてしまう人だからこそ、見なくていい場所では驚くほどおおらかになれる。普段ずっと加減している人だからこそ、その加減を外したときには怖くなる。そして、いつも精密に考えているからこそ、曖昧さの多い世界では疲れやすい。同じ精密さが、場所によって、優しさにも、厳しさにも、苛立ちにも見える。人の性格というのは、いくつもの別々の性質が集まってできているというより、一つの性質が、置かれた場所によって違う顔を見せているだけなのかもしれません。コラム)数学力の強い人⑤ 「現代人は、数学力を試されている」
AIの普及によって、これまで数学とはあまり縁がなかった人まで、数学力を試される時代になったように思います。ここでいう数学力とは、もちろん計算問題を解く力ではありません。何を目標にするのかを決め、条件を整理し、出てきた答えの誤差まで自分で引き受ける力です。これまでは一部の人が得意としてきたことを、AIによって、誰もが日常的に求められるようになってきました。
数学力の強い人は、自分で仕組みを作ります。時間をかけ、何度も考え直し、ようやく一つの答えにたどり着く。だから、その仕組みが現実ではうまく働かなかったとしても、どこが怪しいのか、だいたい見当がつきます。そもそも、現実が式の通りには動かないことも知っています。自分で考え抜いた人ほど、自分の答えを絶対視しない。このシリーズを書きながら何度も感じたのですが、数学力の強い人には、答えへの強いこだわりと、その答えが外れることへの妙な謙虚さが、同居していることがあります。
AIは、この順番を逆にしました。以前なら長い思考の末にしか手に入らなかったような答えが、最初に出てきます。文章も、企画も、分析も、数秒でそれらしい形になる。これは便利なことですが、一つ困るのは、途中の式を自分で通っていないことです。うまくいっている間は問題ありません。ところが現実と答えがずれた瞬間、「なぜ外れたのか」がわからなくなる。AIが間違えたのか、問い方が悪かったのか、前提条件が違っていたのか、それとも最初に設定した目標そのものがおかしかったのか。答えを借りることはできても、その誤差まで誰かに預けることはできません。
2023年、アメリカで、ChatGPTが作った存在しない判例を裁判書面に引用した弁護士たちが、裁判所から制裁を受けたことがありました。問題になったのは、AIを使ったことそのものではありません。専門家として、その答えが本当かどうかを確かめず、自分の名前で裁判所に提出したことでした。この出来事は、AI時代の責任をとてもわかりやすく示しているように思います。途中の計算を誰に任せても、最後の答えを採用した責任までは外注できないのです。
生成AIは、すでに一部の人だけの道具ではありません。2026年版の情報通信白書では、日本で生成AIを使った経験のある人は58.8%に達しています。少し前まで特殊な技術だったものが、急速に日常へ入り込んでいます。これから私たちは、答えを自分で一から作る機会よりも、先に提示された答えを評価する機会の方が増えていくのでしょう。
そうなると、必要になる数学力も少し変わります。速く答えを出せることではありません。そもそも何を求めているのか。どの条件をAIに伝え忘れているのか。この答えはどこまで信用できるのか。外れたとき、どこまでなら許容できるのか。そして最後に、この答えを採用したのは誰なのか。答えそのものより、条件と誤差を扱う力が問われます。計算そのものをAIがやってくれるほど、人間には、その外側にある数学が残ります。
精神科の診療でも、産業医として企業の現場を見ていても、最近、この種類の疲れが少しずつ増えているように感じます。正解らしいものは以前より簡単に手に入るのに、それが本当に正しいのかは自分で決めなければならない。答えがないことより、答えがありすぎることの方が、人を疲れさせる時代になったのかもしれません。
数学力の強い人たちは、昔からこの面倒な世界に住んでいました。一つの答えを懸命に作りながら、それが外れる可能性も同時に考える。答えにはこだわるのに、結果には謙虚でいる。その姿勢が、AIを使う時代には、以前よりずっと多くの人に必要になっているのだと思います。AIによって数学力がいらなくなるのではありません。計算をしなくてよくなった分だけ、私たちはむしろ、もっと数学力を試されるようになったのかもしれません。- カウンセリング2026.09.09
コラム)宿題も抜き去っていい
私が子どもの頃、夏休みの終わりになると、宿題を前に頭を抱えている同級生が一人くらいはいたものです。机の上には手つかずのプリントが山積みで、明日までに全部やるのはどう考えても無理なのに、「全部終わらせなければ」と思うから、かえって何から手をつけていいか分からなくなる。そんな姿を見ていた記憶があります。
大人になると、宿題の種類は変わります。仕事で身につけなければならないこと、苦手な人との付き合い方、これから覚えたいこと、直した方がよさそうな自分の癖、いつか挑戦したいこと。やるべきことを並べれば、いくらでも出てきます。しかも今は、仕事でも生活でも「どこまで進んだか」「まだ何が足りないか」を数字や評価で確認する場面が多く、目標の達成度そのものがストレスと表裏一体になりやすい気がします。でも、それを全部いまの自分が解かなければいけないのでしょうか。難しい宿題ほど、今の自分にはまだ少し早いことがあります。そこに何度も正面からぶつかって、「できない」「まだ足りない」と考え続けるより、いったん印をつけて次のページへ進んだ方がいいこともある気がします。
面白いことに、研究でも似た傾向があります。Barlowらが2020年に31のサンプルをまとめた分析では、難しい目標から離れることよりも、そのあと別の目標へ向かえることの方が、QOLとより強く関連していました。できないことを考え続けるより、別のところでまた動き始める方がいい、という感覚には、少し根拠もあるようです。苦手なことを何とか克服しようとする代わりに、得意なことを伸ばしてみる。難しすぎる本はいったん閉じて、今の自分に面白いと思える本を読む。まだ手に負えない仕事はいったん脇に置いて、できる仕事をきちんと積み上げる。そうしているうちに、以前は歯が立たなかった宿題が、しばらくして見ると妙に簡単になっていることがあります。
前回、「目標は抜き去るもの」という話を書きました。目標に近づいたら、そこに張り付くのではなく、一度横へ出て、その先を見る。宿題も少し似ています。全部の問題を順番通りに解いてから次へ進まなくてもいい。分からない問題はいったん飛ばして、その間に別のことをたくさんやっておく。いつか戻ってきたときには、問題の方は何も変わっていないのに、自分の方が変わっていることがあります。人生には、今日中に提出しなくてもいい宿題が、案外たくさんあるのだと思います。
- カウンセリング2026.09.08
コラム)目標は抜き去るもの
旅行に行くと、予定していた場所に着いたあとも、そのまま予定通り滞在する人がいます。一方で、着いた途端に「せっかくだから次はあっちへ行こう」と行き先を変える人もいます。人には、目標が見えるとそこに向かってまっすぐ進む人と、その目標を通過点にして、その先へ進んでいく人がいるように思います。目標を決めること自体にはもちろん効果があります。ただしWoodらが1987年にまとめた研究では、課題が複雑になるほどその効果は弱まることが示されました。さらにShahらは2002年、ひとつの目標に意識が集中すると他の選択肢が見えにくくなる「goal shielding」という現象を報告しています。目標は人を前に進ませる一方で、視野を狭める面もあるようです。
たとえば会社で「半年で業務を完全電子化する」と決めたとします。目標に突き進めば、システムを入れ、紙を減らし、電子化率は上がっていくでしょう。ただ、そのための入力や確認作業がかえって増え、仕事全体としては面倒になっていることも少なくありません。「電子化する」という目標は達成していても、「仕事を楽にする」という本来の目的からは遠ざかっているわけです。そこで一度目標の横に出て、「そもそもこの作業自体をなくせないか」と考えてみる。もし入力そのものが不要になれば、最初の目標を達成するより一段先に進んだことになります。個人でも似たことがあります。「TOEIC900点」を目指していた人が、英語を使う仕事に飛び込み、毎日話したり書いたりしているうちに、気づけば900点を超えていた、ということがあります。目標を諦めたのではなく、気づけばその先を歩いていたわけです。
私は最近、目標というものはサッカーのドリブルで目の前に立つ相手に似ていると思っています。相手が見えたら、まずそこへ近づく。真正面からぶつかって終わる必要はありません。近づいたからこそ相手の動きが見えます。そこで少し横へずれ、裏を取り、そのまま抜き去る。抜いた瞬間には、もう次のスペースを見ています。目標も、近づくまでは役に立ちます。近づけば遠くからは見えなかった不足や別の道が見えてきます。そのとき最初の目標にしがみつくより、一度その横に出て、その先を見る方がいいこともあります。
人の能力も興味も環境も、進んでいる途中で変わります。最初に描いた目標より、ずっと先まで行けることもあります。目標に突き進む人は目標を達成しますが、目標を抜き去る人は、その目標を通過点にして次の景色まで進んでいく。最近は、そのくらいの目標の持ち方の方が、少し面白いと思っています。
- カウンセリング2026.08.31
コラム)自分の名司会者になる
上手な司会者が仕切る会は、驚くほどあっという間に終わるものです。優れた司会者は、決して参加者に時計を意識させません。「残りあと何分」などと現実を突きつけるアナウンスは避け、乾杯や拍手、ちょっとした歓談のきっかけといった手元の小さな役割を、自然に手渡してくれます。退屈する隙間をつくらないのです。さらに「ここでは誰もあなたを値踏みしない」という安心した空気をつくり、会場全体を無理のないリズムに乗せていく。その結果、誰もが自分を忘れ、気づけば会が終わっているのです。
この名司会者の知恵は、そのまま私たちの一日にも当てはまるのではないでしょうか。私たちは普段、自分自身に対してずいぶん口うるさい司会者になりがちです。「もっと効率よく進めなさい」「時間を無駄にしてはいけない」と自分を厳しく見張り、チラチラと時計を意識させては、自ら時間をねっとりと重たくしてしまいます。
もし一日の時間を心地よく早めたいのなら、自分専任の名司会者になってみるのがいいのかもしれません。まずは、自分に小さな役割を手渡してあげることです。一杯のコーヒーを淹れる、目の前の机を片付ける。手が動いていると、手持ち無沙汰な自意識はすっと薄れていきます。そして「うまくやらなくても大丈夫」と自分を値踏みする視線を外し、目の前のリズムにそっと乗せてあげるのです。
自分を監視するのをやめて、上手にもてなす司会者になれたとき、重たく感じていた時間は、あっという間に駆け抜ける心地よいものに変わっていくはずです。
- カウンセリング2026.08.31
コラム)時間を早める、ちょっとしたコツ
「早く時間が過ぎないかな」と思いながらチラチラ時計を見ているときほど、針は驚くほどゆっくり進むものです。反対に好きなことに夢中になっていると、あっという間に一時間が過ぎ去っていたりします。時計の針の進み方はいつでも同じなのに不思議ですよね。
この違いを生んでいるのは、その瞬間に「自分」をどれくらい意識しているか、なのかもしれません。何かに夢中になっているとき、私たちは「うまくやれているかな」「周りからどう見られているだろう」「あと何分あるかな」といった心配や計算をすっかり忘れています。ただ目の前の作業や会話に心がすっと溶け込んでいて、ふと顔を上げたらもう夕方だった――そんな経験は誰にでもあるはずです。
そうして夢中で過ごした日は、過ぎるのは早かったのに、あとから振り返ると充実した記憶としてあたたかく心に残ります。反対に、時計ばかり気にしてやり過ごした時間は、あんなに長く感じたのに、何をしていたのか思い出せなかったりするものです。
「時間を無駄にしたくない」「有意義に過ごさなければ」と気負うほど、かえって時間は重たくなってしまいます。だからこそ、うまく過ごそうと肩の力を抜いて、目の前のことに身を委ねてみるのが心地よく過ごす近道ではないでしょうか。案外、腕時計は外した方が良いのかもしれません。
- カウンセリング2026.08.31
コラム)二つの時間
先日、新幹線に揺られながら時間というものについてぼんやり考えていました。東京から新大阪まで、速さだけでいえば、こだまよりひかり、ひかりよりのぞみが早く着きます。距離も所要時間も時刻表に決められていて、誰が乗ろうと変わりません。これが時計が刻む物理的で客観的な時間です。
けれど、それとはまるで異なる主観的な時間が私たちのなかには流れています。たとえば、受験生の頃を思い返すと、試験は明日、勉強はまるで足りていない。車内で参考書をひらいては閉じ、問題集を解き、同じところを何度も見直しているうちに、気づけば新大阪のアナウンスが流れている。それでも間に合う気はしないのだから焦ります。二時間半が、まばたきほどにしか感じられないのです。そこまで追い詰められていなくても、似た体験は誰にでもあるでしょう。好きな作家の小説を持ち込んで、つい読みふけっているうちに、もう着いてしまう。あれ?と顔を上げる、あの少し名残惜しい感じです。
一方、主観的な時間が遅く感じられるときもあります。予定した新幹線に乗り遅れて約束に間に合いそうにないと、私はのぞみのシートでそわそわしっぱなしになります。「遅れます、すみません」とメールし、そのあとの予定をどう繰り合わせるか考え、それでも時間が足りず、イライラして何度も時計を見る。早く着きたいと気ばかり急いているのに、時間はねっとりと重く、なかなか進んでくれません。同じのぞみのはずなのに、車窓の景色まで違って見える気がするから不思議なものです。
心理学でも、この感覚のからくりはかなり分かってきています。何かに没頭しているとき、いわゆるフロー状態にあるとき、人は時間の経過そのものに注意を向けなくなり、あとから振り返って「あっという間だった」と感じます。この、時間を数えるのをやめる働きが、あの文庫本のなかでも起きているのです。
だとすると、少しおかしな話ですが、東京から大阪に早く着く方法は二通りあることになります。ひとつは素直にのぞみに乗る。もうひとつはのぞみでなくてもいいから、鞄に文庫本を一冊しのばせておく。片方は物理的な時間を早くし、もう片方は自分の主観的な時間を早くする。同じのぞみに乗ったとしても、旅の長さはずいぶん違ってしまうのです。
近ごろは「タイパ」という言葉をよく聞きます。動画は倍速、要点だけを手際よく。一秒も無駄にするまいというその構えは、人生をまるごとのぞみで駆け抜けようとしているようにも見えます。ただ、後になって「あの時間はよかったな」と思い返すのは、たいてい効率よく過ごした時間ではなく、我を忘れて浸っていた、あの文庫本のような時間のほうなのではないでしょうか。
- カウンセリング2026.08.06
コラム)歪んだクラブで、まっすぐ飛ばす
ゴルフのアイアンをじっくり見たことがあるでしょうか。野球のバットは、まっすぐな棒です。でもアイアンは違います。柄の先に付いた打つ部分が横にずれ、しかも傾いています。初めて見た人なら、「なんでこんな歪んだ道具で、まっすぐ飛ぶんだろう」と不思議に思うはずです。でも、その歪みがあるからこそ、ボールは美しい弾道を描くのです。
まっすぐな棒では、あの球は打てません。しかも高く上げたいからといって、すくい上げるように振ってはいけません。むしろ、上から潰すように打ち込むからこそ、ボールは空へ舞い上がります。理屈に反しているようですが、クラブの歪みを理解している人だけが、この「逆」を使いこなせます。
人間も、まったく同じなのではないでしょうか。多くの人は、自分をまっすぐな道具だと思い込み、正面から素直に頑張れば報われると信じがちです。でも、人間はまっすぐな棒ではありません。抑えのきかない衝動、理屈に合わない執着、世間の型からはみ出すヘンテコさ、みっともないほどの生身の欲。誰もがそういう歪みを削りきれないまま、それでも真剣に生きています。
その歪みをなかったことにして振るから、球は思った方向へ飛んでいかないのです。
だったら、自分の歪みを想定して、うまく振り抜く方法を探すしかありません。
自分の歪みを踏まえたフォームは、たいてい直感と真逆を向いています。そこには、まっすぐな棒では生まれない軌道があります。自分という道具の歪みを受け入れたとき、人はようやく自分だけの弾道を描けるのかもしれません。
